成瀬さんの現在の勤務先は、紙製品を扱う小さな発送作業所だった。
夜の裏口には、無地の灰色の金属扉があった。その上の白い灯りが、雨の上がったアスファルトに細く映っていた。扉の脇には、畳んだ段ボールの束が一つ置かれていた。
私は約束の時刻より五分早く着いた。
表の道には車の音があったが、裏へ回ると、建物の中で台車を押す音だけが聞こえた。

成瀬さんは作業着の上に薄い上着を着て出てきた。
六十代の、小柄な人だった。左手を特にかばう様子はなかった。取材の内容と録音の扱いを説明すると、住所や勤め先の名前を載せないことを条件に、了承してくれた。
近くの店へ入り、壁際の席に座った。
成瀬さんは、私が資料を出し終わるまで待った。最初に手を伸ばしたのは、共同作業室の引継ぎ票ではなく、私宅に残された舟の写真だった。
「ここ、違いますね」
甲板の白い板を指した。
「反対に貼るんです。そうしないと、最後の一枚が入らない」
「いま作っている人へ、伝えますか」
「もう、作らなくていいでしょう」
成瀬さんは写真を机へ戻した。
「なくなるんですから」
私は、なくなるのは作業室だけで、私宅の契約は残っていると説明した。
彼はわかっていた。
使用料の支払いも自分で続けている。家財を預かってもらっているので、払うのは当然だと言った。
「いつか取りに行こうとは思っていました」
「何を?」
「残っているものを」
「何が残っているか、ご存じでしたか」
成瀬さんは、写真に写ったものを一つずつ挙げた。
作業台、舟、材料、青いマグ。
丸いテーブルと椅子、台所の棚は片桐さんの所有物なので、置いていくものだと説明した。
家財の持主については、成瀬さんがいちばん正確だった。
最初の六週間の紙を見せた。
「このときは、助かりました」
左手首が使えず、親類の家へ移った。身の回りのことは頼めても、離れた自宅に届く材料や、作業室の用事までは頼みづらかった。
杉浦さんが手伝うと言ってくれたので、思いつくことを一枚に書いた。
食堂の予定は、私が聞いたとおりだった。店主が食べやすいものを用意して待っているので、顔を出して事情を伝えてほしかった。
杉浦さんが食べてくれたと知り、次も頼んだ。
「それだと、私が戻ったときも、同じように行けるでしょう」
「戻ったあと、ご自分で行かれましたか」
成瀬さんは窓の外を見た。
「行った気でいました」
彼は箸袋を折りかけ、そのまま机へ置いた。
怪我が治ってからも、家へ帰る気になれなかったという。
大きな理由が一つあったのではない。親類の家から別の部屋へ移り、仕事を探し、作業室へ通う回数が減った。私宅には、昔からやりかけにしていたものが多く、帰ればその続きがあった。
「模型なんて、好きで始めたんですけどね。長く置くと、やらなきゃいけないものになる」
引越しを決め、寝具と大きな家具を運んだ。
片桐さんとの立会いの日に、仕事が入った。
「本当に、仕事でしたか」
私が聞くと、成瀬さんは首を振った。
「最初は。二度目は、行きたくなかった」
荷物を運び終えていない。家の中を見れば、片づけることがまだある。片桐さんは急がない人だった。杉浦さんも、残った用事を済ませてくれた。
一度延ばすと、次の日を決めなくても家は荒れなかった。
成瀬さんは、そこに甘えたと言った。
正式に事務を引き継ぐとき、私用の用事まで残したことについては、誰かが一度に全部をするとは思っていなかったという。
「行ったついでで済むものですから」
「それが九年続くとは?」
「思っていません」
「終わりを知らせるのは、ご自分からだと書いてあります」
成瀬さんは、最初の紙を見た。
「書きましたね」
その言い方には、記憶がなかったという逃げはなかった。
私は、担当者たちが退任後も用事を続けていたことを話した。
成瀬さんは、知らなかった、と言った。しかしそのあと、黒田さんが窓を直した写真を見ると、これは寒い日だった、と付け加えた。
「窓の下の木が湿っていて、乾かないんです。風が入って」
「ここへ来られたんですか」
「来ていません」
「写真以外のところがわかる?」
成瀬さんはしばらく、写真を見つめた。
「やったような気がするんです」
野間さんと黒田さんの名前を伝えたが、顔は知らなかった。杉浦さん以外には会ったことがないという。
それでも、写真を見ていると、自分がどちらの膝を床についたか思い出せる、と言った。
「右ですね。下に何か硬いものがあった」
私は、そのときは黒田さんへ確認しなかった。
写真を見て記憶を組み立てたのかもしれない。膝の話だけで、黒田さんの記憶が移ったとは言えなかった。
ただ、彼自身はその話題を早く終えたがっていた。
「わかるのは、細かいことばかりなんです」
誰かが来る予定を聞くと、待っていたような気がする。舟の写真を見ると、前の日に手を動かしたような気がする。
現在の部屋で一日を過ごしたあとに、あちらの家の窓を閉めたか気になる。実際には何年も行っていない。
「行ってないのに、帰ってない感じがしないんです」
成瀬さんは、私の置いた写真を全部裏返した。
「だから、ちゃんと行くのが、だんだん嫌になった」
前任者への連絡は不要、という文は、彼が書いた。
最初は、細かな確認に答えられなくなったためだった。
備品の場所なら説明できる。しかし家に今あるものや、次に届く材料については、杉浦さんのほうがよく知っていた。
自分に聞かなくても進むなら、それでよいと思った。
「聞かれないようにしたかったんですか」
「ええ」
成瀬さんは認めた。
「答えると、また、私がそこにいることになる気がして」
私はしばらく何も書けなかった。
彼が避けていたのは、用事の面倒さだけではなかった。けれど、その不安を言葉にせず、用事と一緒に渡したことは、やはり彼のしたことだった。
帰り際、私は退去の立会いへ来てほしいと頼んだ。
荷物の処分方法を決めるだけでも、本人にいてほしい。鍵は家主へ返す。作業室の後任者へ渡しても、この家からは出たことにならない。
「行ったら、戻ることになりませんか」
成瀬さんが言った。
私は、戻らないために行くのだと説明しかけて、やめた。自分にも保証はできなかった。
「一人では行かなくていいようにします」
それだけを伝えた。
彼は日時を聞いた。
十一月二十九日の午前。作業室を閉める前日だった。
その場で片桐さんへ電話し、本人から約束してもらった。
成瀬さんは、最初に名前を言った。
電話の向こうの声は私には聞こえなかったが、彼は同じ日付を二度繰り返した。
「今度は、私が行きます」
机の上で、裏返した舟の写真が、彼の袖に押されて少し動いた。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。団体、場所、人物、取材、年月日および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。