前任者への連絡は不要、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

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前任者への連絡は不要|第七章 最初の六週間 iwa+

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最初の引継ぎは、青灰色のファイルには入っていなかった。

 杉浦さんが持ってきた大学ノートの、裏表紙につけた封筒にあった。レシートや部品の注文票と一緒に、四つ折りになっていた。
 十一月十四日、杉浦さんはもう一度、作業室へ来てくれた。
「臨時の紙ならこっちだと思って、探しました」
 正式な引継ぎの書類は作業室へ残し、自分だけが頼まれた用事の紙は、私用の控えと一緒に持ち帰ったのだという。
 紙は普通の事務用紙だった。上半分が印刷され、下半分に青黒のボールペンで書込みがあった。左上のクリップの下だけが、わずかに波打っていた。

木の作業台に置かれた普通の引継ぎ用紙。左端に小さなクリップ、脇に青黒いボールペンがある。
挿絵:AI生成による架空の場面

資料七 臨時引継ぎ
 二〇一四年九月二十三日

 杉浦さん
 六週間ほど、お願いいたします。
 連絡をいただいてもすぐ出られないため、わかる範囲で進めてください。

 作業室
 郵便、配達、利用者からの連絡
 支払いは別封筒

 留守中のこと
 水曜 小野寺 六時二十分
 配達は家で受取り
 窓と水道
 片桐さんには話しています

 こちらから再開を伝えるまで、いつもどおりにお願いします。
 成瀬

 その下に、別の筆跡で、家の鍵一本受領、という記載があった。杉浦さんの字だった。
 「いつもどおり」という言葉は、杉浦さんにとって、まだ一度もしたことのない用事に向けられていた。

「水曜日の食事を、なぜ頼まれたんでしょう」
 私はもう一度聞いた。
 杉浦さんは、今度は答えられた。
「手を怪我して、食べにくいことがあったんです。お店の方が気にして、約束してくださっていたみたいで」
「それなら、杉浦さんが行く必要は」
「約束を変えるのを嫌がったんです。せっかく用意してくれるから、顔を出して、よろしく伝えてほしいと」
 最初の水曜日、杉浦さんは顔を出した。
 食事が用意されていた。断るのは悪いと思い、食べた。
 成瀬さんへ報告すると、助かります、来週もお願いします、と言われた。
 薬を飲んでいるか聞かれたとき、自分のこととして答えたのは、その翌週だった。
 店の人に成瀬さんの体調を伝える役目が、食べる人の体調を伝えることへ変わっていた。
 変わった時点を、二人とも覚えていなかった。

 舟の模型については、最初は棚に部材をしまうだけだった。
 湿気で板が反るので、袋を開けて平らに置いておいてほしいと言われた。届いた順に整理しているうちに、説明書の図を確かめるようになった。
 成瀬さんは電話で、仮に合わせておいてもらえると助かる、と言った。
「どこから作ったことになるんでしょうね」
 杉浦さんは、小さくなったクリップを指先で動かした。
「袋を開けたところか、板を置いたところか」
 私は答えられなかった。
 自分の仕事でも、保存のために順番を整えたつもりが、資料の読み方を一つに決めてしまうことがある。彼女のしたことを、ひとつの動作だけで区切るのは難しかった。

 六週間が過ぎたあと、成瀬さんは作業室へ戻った。
 利用料の確認も、工具の注文も、自分でするようになった。杉浦さんは、引き継いだ分を返したと思っていた。
 ただ、配達を受け取る日には、まだ頼まれることがあった。家の窓を開けることも、自然に続いた。
「鍵を返さなかったんですか」
「返そうとしました」
 成瀬さんは、近いうちに引っ越すから、そのあとまとめてお願いします、と言ったという。
 杉浦さんはそれを、鍵や荷物を持主へまとめて返すという意味で受け取った。成瀬さんは、残った用事をまとめて杉浦さんに任せるという意味で話したのかもしれない。
 二人の意味がその時点で違ったかどうかは、後で本人へ確かめることにした。

 二〇一五年三月のことが、杉浦さんのノートに残っていた。

 資料八 杉浦千里氏の控え

 三月二十八日
 引越し 大きい物だけ
 小さい物、まだ
 片桐さんへは本人から
 鍵はその時

 四月二日
 立会い 延期
 それまで、家は今までどおり

 五月十九日
 家、どうするか聞く
 もう少し待ってくださいとのこと

 秋以降、家をどうするかという記述は見つからなかった。
 代わりに、茶、舟の材料、雨戸という短い言葉が続いていた。
 質問だけが途中でなくなり、用事はなくならなかった。

 正式な担当者を替わるとき、杉浦さんは、臨時の紙を成瀬さんへ見せたという。
 成瀬さんはそれをそのまま作業室の引継ぎに入れるよう言った。ただし、個人的な説明は省き、必要な項目だけを別紙に書いてほしいと頼んだ。
「いろんな人が見るものなので、と」
 臨時の紙からは、六週間という期間と、留守中という見出しが消えた。
 こちらから再開を伝える、という一文も消えた。
 残った項目は、正式な引継ぎ票の〈継続事項〉に入った。
 成瀬さんが帰ってくるまで頼まれていた用事が、担当者が替わっても続ける用事になった。

 私は二つの紙を並べて撮った。
 正式な書類にするため、私用の事情を削った。その一つずつに、書いた人なりの理由があった。
 そうして出来上がった紙だけを受け取れば、黒田さんや野間さんが作業室の仕事だと思うのも無理はなかった。
 ただ、それで食堂での呼ばれ方や、私宅にいるあいだの感覚まで説明できるわけではない。
 紙ができた経緯は追えた。渡された人に起きたことは、まだ追えなかった。

 杉浦さんは、引継ぎ票の末尾を見た。
 〈前任者への連絡は不要です〉
「これ、私が黒田さんに言いました」
「成瀬さんに言われたとおりに?」
「そのつもりでした。でも、黒田さんからしたら、私に連絡するなということになりますよね」
 彼女は初めて、そこで笑わなかった。
「電話してくれたら、家のことは私にもわからないって、言えたと思うんです」
 引き継いだ用事には、誰に聞けば終わるのかが書かれていなかった。
 質問の宛先だけが、紙を渡すたびに一つずつ遠くなった。

 私は、最初の紙を返した。
 杉浦さんは封筒へ戻しかけ、もう一度広げた。
「この、再開というのは。仕事のことだけだったんでしょうか」
 私は、本人に聞きたいと答えた。
 杉浦さんはうなずいた。それから紙の余白に、新しいことを書こうとした。
 ペン先が触れる前に止まった。
「ここに書くと、また最初からこうだったみたいになりますね」
 代わりに、新しい紙を出した。
 そこには日付と、自分がいま覚えていることだけを書いた。

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。団体、場所、人物、取材、年月日および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

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