かつて深海サルベージの現場で「鉄の肺」と渾名された男、瀬戸口がその職を辞したのは、十年前のある潜水作業が原因だった。
沈没した観測船の回収。現場は俗に「海溝の墓場」と呼ばれる海域で、潮流は読めず、常に泥が舞い、計器よりも経験がものを言う場所だった。瀬戸口は単独潜行を任されることが多く、その孤独な作業にだけ、奇妙な安堵を覚えていた。
その日は台風の余波で海中は異様なほど濁っていた。本来なら中止判断が出る状況だったが、彼は潜行を選んだ。視界の底で、沈没船の船体が鈍く反射した瞬間、胸の奥に妙な確信が生まれた。ここにある、と。
回収作業を終え、減圧チャンバーへ戻る直前、ライトの縁に人影が映った。
水深二百メートル。
海底に、男が立っていた。
潜水服はない。酸素ホースもない。事務服のような上下にネクタイ姿。水圧に押されるはずの布は揺れず、男はまっすぐ瀬戸口を見ていた。
遭難者という考えが一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。理屈以前に、立ち方が間違っている。瀬戸口は視線を切り、ガイドロープへ手を伸ばした。
浮上を始めてすぐ、通信が途切れた。相棒のライトが消えている。呼びかけても、返るのは砂を噛むようなノイズだけだった。
下を見た。
闇の中から、異様な速度で何かが迫ってきた。相棒の潜水艇かと思ったが、ライトの明滅が規則を持たない。ただの点滅ではなく、呼吸のように乱れている。
瀬戸口は浮上速度の制限を無視した。警告音が鳴り続ける中、背後から迫る光は距離を詰めてくる。やがて、視界の先に母船の船腹が見えた。
その前に、男が浮いていた。
先ほどと同じ事務服。
水を押す動作もなく、そこに在った。
瀬戸口が緊急浮上レバーを叩いた瞬間、意識が白く弾けた。圧力に潰される感覚の中で、彼は見た。背後の影が、母船の鋼鉄を水面の膜のように抜け、内部へ消えていくのを。
目を覚ました時、瀬戸口は医務室にいた。全身が痛み、耳の奥で湿った声が反響していた。
「……まだ残っていたか」
医師の声ではない。
低く、近い。
搬送先の病院で下された診断は、重度の花粉症だった。鼓膜が損傷し、鼻血が止まらない状態にもかかわらず、医師はカルテを閉じてそう告げた。
同行していた元上司が激怒し、別の病院へ回されたことで、ようやく潜水病と多発性骨折が確認された。
後日、最初の医師は震える声で語った。
診察中、瀬戸口の背後に男が立っていたという。面会者名簿には何も書かず、ただ耳元で同じ言葉を繰り返していた。
「この子は、息を詰めやすいんです」
それ以外の判断が、頭に入らなくなったと。
入院中、受付にはたびたび「父親」を名乗る男が現れた。面会は求めない。ただ、瀬戸口が何分間眠っているか、呼吸が何度乱れたかを聞き、満足そうに帰っていったという。
看護師の証言によれば、その服装は決まっていた。
事務服にネクタイ。濡れていない靴。
瀬戸口は退院後、海に戻らなかった。
今も深い青を見ると、無意識に息を数えてしまう。
呼吸が乱れた瞬間、どこかで誰かが記録をつけている。
そんな確信だけが、澱のように沈み続けている。
(了)