【記録抜粋:第七岸壁の保管庫・聞き取り音声書き起こし】
――録音開始。
俺があの場所と再び接続されたのは、運が悪かったからではない。事故でも災害でもない。晴れた平日の午前、会社の搬入口で足を滑らせ、金属の段差に脛をぶつけただけだ。骨に異常はなく、医者は数日は重い作業を避けるよう言った。現場に出られない人間は、社内では用途不明の荷物になる。
その日の夕方、上司から内線が来た。「第七岸壁の保管庫、整理できるな」。断る理由はなかった。港の設備保守部署にとって、倉庫整理はいつも後回しの仕事だが、週末に立ち入り検査が入るらしい。帳尻合わせの人手が要った。
保管庫は第七岸壁の端にある。地図で見れば港の付属物みたいな位置で、普段は誰も近寄らない。倉庫番はいない。鍵は警備室のキーボックスにあり、貸し出しは紙に署名するだけ。管理が薄い場所だ。
貨物ヤードを抜け、外周フェンス沿いを歩く。夏の昼の港は異様に明るい。水面の反射で目が疲れるほどで、空が青いほど金属とコンクリートの匂いが濃くなる。俺は片足をかばいながら、書類袋と手袋だけ持って歩いた。
保管庫は想像より小さい。コンテナを二つ横に並べ、外壁を付けただけの建物で、入口の庇が歪んでいる。扉の前に立つと、塩でも油でもない乾いた匂いが鼻についた。古い紙が日向で温まったときの匂いに近いが、焦げではない。
鍵を回すと、金属が嫌な角度で擦れる音がした。扉が開いた瞬間、外の熱が引く。冷蔵庫ほどではないが、空気が一段落ちる。中は暗いのに白っぽい。塩が析出した壁が光を返している。
作業は単純なはずだった。ラベルの剥がれた箱を分け、廃棄予定に赤札を付ける。それだけだ。
最初の違和感は床だった。足音が遅れて返ってくる。反響の話ではない。俺が一歩踏むと、一拍置いて、別の位置から同じ足音がする。靴底の癖まで一致する音だ。立ち止まると、外では蝉が鳴いているのに、ここだけ音が薄い。
棚の奥から、透明のケースが出てきた。中身は機器ではなく紙の束。封筒でも伝票でもない。厚手の紙に、細い線で同じ図形が繰り返し描かれている。港湾設備の図面ではない。実用の線ではない。几帳面な人間が、意味のない形を繰り返した線だ。俺は棚に戻した。
そのとき背中で音がした。
「ピッ」
短く乾いた電子音。倉庫に通電した機器は置いていない。照明も点けていない。窓もない。反射的に扉を見ると閉まっている。
「ピッ」
今度は棚の向こうだ。回り込むと、床に小さな携帯端末が置かれていた。社内のタグ読み取り機に似ているが型が古い。画面は暗いのに背面のランプだけが弱く点滅している。
拾い上げた瞬間、手のひらに微かな振動が来た。画面が勝手に点灯し、八桁の数字が並ぶ。下にも同じ桁数。規則性はあるのに意味が掴めない。数字の横に極小の文字で「返却」と出ていた。
その直後、奥で何かが落ちる音がした。乾いた音だ。俺は脛の痛みを忘れて奥へ進んだ。通路は狭く、塩の白さで距離感が狂う。壁は近いのに、二歩進んでも近づかない。
落ちていたのは透明ケースだった。棚から滑り、蓋が少し開いている。しゃがむと、風もないのに紙が一枚めくれた。そこに描かれていたのは倉庫の平面に似た線だった。通路と棚の配置が雑だが迷いなく描かれている。通路の端に小さな印があり、矢印が向いている。矢印の先は、俺の立っている位置だった。
汗が背中を冷たくした。紙を戻し、ケースを抱えて立ち上がった瞬間、また「ピッ」と鳴った。今度は足元だ。
床の目地から、薄い黒い帯が覗いている。ケーブルではない。湿っていないのに光を吸う。後ずさると棚に肩をぶつけ、金属が震えた。上の箱が落ちる。軽い。空だ。だが内側に手書きの札が貼られていた。
「返せ」
誰に。何を。俺は今日持ち込んだ物を思い返した。手袋、書類袋、ペン。どれも関係ない。だが端末は違う。拾ったものだ。置くべき場所がある。
倉庫全体の圧が変わった。地面が沈むのではない。空気が一段深くなる。耳の奥が詰まり、塩の白い壁がさらに白くなる。目が痛む。
「ピッ、ピッ、ピッ」
三回。応答のように響く。黒い帯が、影が伸びるみたいに床の線に沿って伸びた。俺は走れない。だから、できることをするしかなかった。
透明ケースを棚に戻す。拾った端末を床に置き、最初にあった位置へ滑らせる。余計なことをしない。触った痕跡を消す。置いた瞬間、圧が抜けた。蝉の声が一気に戻り、白さが普通の白に戻る。黒い帯は目地に吸い込まれて消えた。
俺は振り返らずに扉まで歩いた。鍵を回し、外に出た。夏の熱が刺さる。背中は汗で濡れているのに鳥肌が立っていた。
翌日、警備室に端末の話をした。「その型はもう使っていない」と言われた。貸し出し記録を見ると、今週、第七岸壁の鍵を借りたのは俺だけだった。
検査の日、検査員が首を傾げた。「ここ、鍵の規格が違いますね」。俺が借りた鍵は、シリンダーに合っていなかったらしい。それでも、俺は確かに中に入った。
今でも匂いだけは思い出せる。古い紙が乾く匂い。焦げでも腐れでもない。返されないままの約束が、静かに風化するときの匂い。
――録音終了。
(了)