通勤に使っている道に、小さな惣菜屋がある。
駅と住宅街のちょうど境目にあって、朝は仕込みの匂いが漂い、夕方になると揚げ物の油の匂いが歩道まで流れてくる。特別に安いわけでも、行列ができるわけでもないが、帰りが遅くなった日に立ち寄ると、妙に落ち着く店だった。
店は一階が売り場で、二階が住居になっている。古い建物で、外階段はなく、裏に回ると勝手口があるらしいが、客の立場では二階の気配を感じることはほとんどなかった。ただ、夕方になると二階の窓に明かりが灯り、そこに割烹着姿の奥さんが立っているのを何度か見たことがある。店の奥さんだと分かったのは、何度も会話を交わしていたからだ。年齢は五十代くらい。声は低く、言葉数は少ないが、注文を覚えてくれていた。
ある朝、その店の前を通ると、シャッターが下りていた。
シャッターの中央に、白い紙がガムテープで留めてある。
「家族に不幸が出たため、しばらく休業いたします」
印刷ではなく、手書きだった。文字は丁寧だが、どこか力が入っていない。普段なら朝の仕込み音が聞こえる時間帯なのに、店の前は静まり返っていた。
誰が亡くなったのだろう、と思った。店の奥さんか、ご主人か、あるいは親族か。惣菜屋の奥さんが一人で店に立っていることは多かったが、ご主人の姿を見たことがないわけではない。昼過ぎに、無言で品出しをしている中年の男性を見かけた記憶がある。
そのまま通り過ぎようとして、ふと二階を見上げた。
窓が開いていた。
そこに、割烹着を着た奥さんが立っていた。
こちらを見ているわけではなかった。通りを行き交う人も、シャッターの貼り紙も関係ないように、ただ下を向いて立っていた。表情までは分からないが、動きがなかった。洗濯物を干している様子でもなく、誰かを待っているようにも見えなかった。
いつも通りの姿だった。店で見かけるのと変わらない、白い割烹着だった。
ああ、ご主人が亡くなったのかもしれない、と思った。
それなら、二階に奥さんがいるのも不自然ではない。喪に服して、店を閉めているだけだ。そう納得して、そのまま会社へ向かった。
その日の帰りも、シャッターは下りたままだった。貼り紙も同じ位置にある。二階の明かりはついていなかった。
翌日も、その次の日も、店は閉まっていた。
数日後、近所の人から話を聞いた。
亡くなったのは、ご主人ではなかったという。
亡くなったのは、奥さんだった。
しかも、休業の貼り紙が出る前日には、すでに亡くなっていたらしい。
最初は聞き間違いだと思った。
あの朝、二階の窓に立っていたのは、確かに奥さんだった。割烹着を着ていたし、体格も同じだった。何より、何度も顔を合わせている。見間違えるはずがない。
だが、話をしてくれた人は、淡々と事実だけを並べた。
救急車が来たこと。
店が急に閉まったこと。
通夜と葬儀が、近くの斎場で行われたこと。
では、あの朝に見たのは何だったのか。
そう尋ねようとしたが、言葉が出なかった。相手は、こちらの沈黙を気にも留めず、最近あの通りも寂しくなった、とだけ言って話を終えた。
それからしばらくして、店の前を通るのが少し苦痛になった。
シャッターは下りたまま、貼り紙だけが風に揺れている。二階の窓は閉じられ、カーテンも引かれていた。
ただ、一度だけ、夕暮れ時に二階を見上げてしまったことがある。
窓は暗く、何も見えなかった。
それでも、あの朝と同じ高さに、何かが立っているような気がした。
以来、意識してその店の前を見ないようにしている。
通勤路を変えるほどではないが、視線だけは逸らす。
あそこに何がいるのか、もう確かめる気にはなれない。
あの貼り紙は、今もそのままなのかどうか。
それすら、知らないままでいた方がいい気がしている。
[出典:244 :可愛い奥様:2008/06/22(日) 00:50:18 ID:Hs0FQGoa0]