今住んでいるマンションから徒歩十五分ほどの場所に、個人経営のハンバーガー屋がある。
看板は色褪せ、照明も暗く、遠目には営業しているのかどうか分からない。フランチャイズではなく、手作りを売りにしているらしいが、味は特別うまいわけでもない。セットで八百円を軽く超える価格のせいか、店内に客がいるのをほとんど見たことがなかった。
一階がレジと厨房で、階段を上った二階が飲食スペースになっている。無駄に広いフロアに、古いテーブルと椅子が間隔を空けて置かれ、中央には調味料の台がある。そこに、手書きの紙が貼ってあった。
当店のハンバーガーには独自の味付けをしております
調味料は一度召し上がってからお使いください
独自の味付けと言っても、ケチャップとフレンチドレッシングがかかっているだけだ。少なくとも俺にはそう感じられた。
調味料台にはサルサソースが置いてあった。市販品だが、俺はそれが好きだった。他に食べたいものが思いつかないとき、消去法でこの店を選ぶ理由はそれだけだった。
店主は中年の男で、レジと厨房を一人で切り盛りしている。奥さんらしき女が配膳と片付けを担当していた。二人とも七〇年代を引きずったような服装で、洒落ているわけではない。生活の延長がそのまま店に滲み出ているような空気があった。
二階フロアの奥は、そのまま住居につながっているらしく、奥さんは料理を運ぶとすぐ引っ込んでしまう。
俺はいつも、席に着く前に調味料台へ行き、バンズを開いてサルサソースをどばどばかけた。貼り紙の文句は目に入っていたが、気にしたことはない。
三度目に行ったときだった。
注文を告げると、店主が一瞬こちらを見て、少し間を置いてから言った。
「うちのハンバーガーは、そのまま食べてみてくださいね。調味料を使うと、味が分からなくなりますから」
言い方が妙に丁寧で、どこか硬い。
俺は曖昧に「ええ」と返した。その日も、結局サルサソースをたっぷりかけて食べた。
それからしばらく、足が遠のいた。二、三か月は経ったと思う。
ある日、急にハンバーガーが食べたくなり、久しぶりにその店に入った。
注文を終えた瞬間、また同じ言葉を言われた。
文言も、間の取り方も、前回とまったく同じだった。
「うちのハンバーガーは、そのまま食べてみてくださいね。調味料を使うと、味が分からなくなりますから」
今回は、はっきりと違和感があった。
店主の顔が引きつり、口元がかすかに震えている。声は抑揚がなく、感情を押し殺したような棒読みだった。
通り一遍の注意ではない。俺に向けられた非難のように感じられた。
だが考えてみれば、二階で食べている俺の様子を、店主夫婦が直接見ているはずはない。
階段を上がった先は死角だし、奥さんも料理を置いたらすぐ引っ込む。
それでも、あの口調は知っている人間に向けたものだった。
席に着き、奥さんがセットを置いて戻るのを確認してから、俺は調味料台へ向かった。
いつも通り、バンズを開いてサルサソースをかける。
少しだけ、躊躇いがあったが、構わず続けた。
食べ始めると、やはり特別ではないが悪くない味だった。
半分ほど食べ進めたところで、ガシャンという大きな音が響いた。
反射的に振り返ると、二階奥の住居の入り口が開いていた。
そこから、店主と奥さんが半身だけ姿を現し、こちらを見ていた。
店主は、何かを床に叩きつけた直後の姿勢のまま固まっている。
奥さんは無表情だった。
二人の視線が、まっすぐ俺に突き刺さっていた。
殺気ではない。
怒りでもない。
もっと別の、言葉にしづらいものだった。
一瞬、視線が合った。
その瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
自分が何をしているのか、分かっているはずなのに、分かっていないような感覚。
俺は何も言わず、席を立ち、階段を下り、そのまま店を出た。
背中に視線が貼り付いたままだった。
それ以降、その店には行っていない。
だが、店の前を避けるように歩くこともしていない。
数か月後、店の前を通りかかったとき、売り物件の貼り紙が出ているのを見た。
理由は書かれていなかった。
今でも、別の店でハンバーガーを食べるとき、無意識に調味料を手に取る前に、少しだけ間が空く。
誰かに見られている気がするわけではない。
ただ、味を変える前に、何かを確かめるようになった。
あの店主が何を壊されたと思ったのか、俺には分からない。
だが、勝手に変えたのは、確かに俺だった。
そして、そのことを、向こうは知っていた。
その視線が、どこまで続いているのかは、今も分からない。
[出典:死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?33/644 :1/3:03/04/16 20:34]