十年以上も昔のことになる。
親戚の伯父と叔母が、観光でエルサレムへ出かけた。ふたりは宗教的な熱心さとは縁遠く、ただ歴史ある土地を見てみたいという気まぐれに近い気持ちでの旅だったらしい。街の中心部ではなく、郊外の丘に近い場所に建つ古びた宿に泊まったという。石を積み上げただけのような外観で、壁のひび割れに砂が吹き込んでくる。ホテルと呼ぶにはあまりにも頼りなく、安宿と呼ぶにもどこか不安な造りだった。
到着したその夜、伯父は慣れぬ土地の酒に浮かれ、戻るなり浴びるように飲んで泥のように眠り込んだ。鼾が壁を震わせ、隣室の客にも迷惑がられたらしい。
一方で叔母は眠れなかった。ベッドの上に広げた観光マップを眺めながら、明日はどこを歩こうかと胸を躍らせていた。外からは夜風の匂いが流れ込み、砂混じりの乾いた香りと虫の声が混ざっていたという。時計の針が真夜中を告げても、眠気は訪れなかった。
そのとき、馬のいななきが聞こえた。
最初は遠雷のように小さく、だが確かに馬の鳴く声だった。まさかこんな夜更けに、と窓を開けると、月明かりに照らされた丘の上に、黒い影が無数に並んでいるのが見えた。
旗のようなものが風に揺れ、大きな十字架を掲げる者もいる。皆が馬に跨り、丘を埋め尽くすように一列に並んでいた。輪郭は黒々とした影でしかなかったが、あまりに多く、しかも整然と行進するその姿は、ただの盗賊や遊牧の民には思えなかった。
喉が乾き、指先が震えた。
あれが現実のものなら、ただ事ではない。強盗団かもしれない、殺されるかもしれない。恐怖に突き動かされ、伯父を揺さぶったが、酒に沈んだ肉体は死体のように動かず、鼾が返ってくるばかりだった。
どうすればいいか分からず叫んでいたところ、廊下から扉を叩く音がした。宿の主人だった。
「アー・ユー・オーケー?」
心配そうに英語で叫び、叔母は慌てて鍵を開けた。「盗賊です、外に盗賊が!」と声を裏返らせると、主人は一歩中に入り、窓辺へと進んだ。
だが、そこには何もなかった。
虫の鳴き声と月明かりが残るだけ。丘は静かに横たわり、人影ひとつない。
「誰もいませんよ」
主人は穏やかに言った。
「そんなはずはない、確かに見えたんです。旗や十字架を掲げた騎馬の列が……」
主人はしばらく黙り込み、それから低い声で言った。
「……それは多分、亡霊です」
あまりに唐突で、叔母は耳を疑った。だが男は真剣だった。
「私が子どもの頃、一度だけ同じものを見ました。さらに昔、曽祖父も同じ体験をしたと語っていました。恐らくあなたがご覧になったのも、十字軍の霊でしょう」
丘はかつて戦場だった。十字軍がイスラム軍に敗れ、捕虜となり、大勢が処刑された土地だと宿の主人は語った。以来、夜になるとまれに亡者の行列が現れることがあるのだと。
「運がいいですね。何百年も前の兵士たちを、そのままの姿で見ることができたのですから」
しかし叔母は幽霊など信じていなかった。自分をからかっているのだと思い、腹を立てた。問い詰めても主人は淡々と、「あれは十字軍ですよ」と繰り返すばかり。
やがて夜は更け、丘は静寂を保ったまま朝を迎えた。
翌朝、酔いから覚めた伯父に話しても「夢でも見たんだろう」と一笑に付された。だが確かに見たのだ。馬に跨る無数の影、旗、十字架……。
その後、丘は舗装され、近代的な住宅やホテルが立ち並び、痕跡は完全に消えた。もう誰もあの行列を見ることはない。叔母は今でも笑い話のように語るが、語りながらも顔色が微妙に曇ることがある。
中学生だった私は、この話を聞いてぞくりとした。歴史書の挿絵や映画でしか知らなかった十字軍が、夜の丘に影として現れる光景を思い浮かべると、胸が熱くなった。恐怖よりも圧倒される感覚だった。
叔母は後年、映画「キングダム・オブ・ヘブン」を見せられたとき、「あ、これだわ。私が見たの、きっとこれ」と驚いたという。
私は時折考える。あれは本当に幽霊だったのか、それとも土地に刻まれた記憶の幻影だったのか。砂に埋もれ、血で濡れた大地が、月光を受けて一夜限りの映像を映し出したのかもしれない。
ただ一つ確かなのは、あの夜、誰もいないはずの丘に、十字軍の行列が確かに立ち現れたということだ。
三千文字を超えた今でも、私はその光景を想像するだけで心臓がざわめく。もしあれを自分の目で見ていたら、幽霊を信じないままでいられただろうか。
[出典:233 :彼氏いない歴774年:2011/07/03(日) 22:50:23.27 ID:Vwty7/Mz]