目の前には肉。
原著作者:2010/04/27 02:31 鴨南そばさん「怖い話投稿:ホラーテラー」
白い大きな皿に盛られたステーキ用の肉がある。
ジュウジュウと肉の焼ける匂いが食欲を刺激する。
あり合せのポテトやニンジンはない。
僕はあの妙に甘いニンジンは嫌いなので、嬉しく感じている。
お腹すいた。
ニンジンは嫌い。
飲み物はワインかな。
ステーキ食べたい。
ああ、美味しそうだ。
もう食べてもいいのかな。
さあ食べようというときにテーブルを挟んで同席している女が口を開く。
「 」
僕はそういうものかと思い、ステーキ用のナイフを掴む。
そしてゆっくり押し当てる。
切味の悪いナイフは中々進んでいかない。
早くステーキ食べたい。
「 」
それはそうだ。
その言葉に納得し、力を込め前後に動かすと、刃が食い込んだ。
肉を切る感触が手に伝わろうとする。
目が覚めると駅のホームだった。
学生時代に僕はとあるアルバイトをしていた。
アルバイトの性質上、僕のシフトは夜が通常勤務する時間だ。
完全に夜型の人間になるのにそうは時間がかからなかった。
もう少しで区役所の気の抜けたメロディーが聞こえる時間になってしまう。
出掛けるまでそうは時間がなさそうだ。
起きぬけの頭で何通かのメールを返し、何通かのメールを新たに送る。
シャワーを浴び戦闘服に着替え、バイト先へと向かう。
「ずーっと続くんだよ、怖くない?」
そのお客様はモエさんと言う新規の方だった。
モエという名前からは連想がつかないほど彫りのはっきりした顔立ち。
だが決して不美人というわけではない。
寧ろ、顔だけで言うならばその辺の女性など相手にはならないだろう。
切長の目。
肌の質感。
スタイル。
髪のつや。
艶やかさ。
どれをとっても本物以上の美しさ。
彼らは「本物」以上だ。
そういったプライドも手伝ってか、男が想像する女性観に非常に近い。
仕草やしゃべり方、そして魅せ方。
「怖いと思うから、怖いんだよ」
「でも終りがないのに歩き続けるんだよ、怖い」
彼は両手を顔の前で握り締め、このところ多くみる悪夢の話をする。
自分がみる悪夢はとてつもなく怖く感じる。
しかし、人に聞かせても怖いと思われないことはざらにある。
それは主に夢を見るシステム上のものだと僕は思っている。
夢はもっとも日常的な幻覚の一つだ。
脳が怖いと錯覚しながら見る夢は、怖いのだ。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚それのどれともリンクが曖昧なことが寝ている状態を指す。
全くリンクが無いとは呼べないが、それを意識することはほとんど無いだろう。
ということは、夢は脳内で処理されていると言っても良いだろう。
ほぼスタンドアローンの状態で脳が見せる幻覚。
それが夢だ。
感情がダイレクトに流れ込んでその現象に後付けの影響を与えても何らおかしなことではない。
「何でこの怖さが伝わらないかなあ」
「夢ってそういうものだよね。僕の友達の話なんだけど――」
僕は、バイトを斡旋してくれた先輩が見た夢の話をした。
巨大なモヤシ畑で一人立ち尽くす、というシュールな夢だ。
モヤシ畑なるものが本当にあるかどうかは分からない。
だが彼は非常に怖い夢として僕にこれを語った。
モヤシが凄い勢いで伸びるんだよ怖いだろ、と僕にその夢を語るのだ。
先輩は僕のリアクションが気に入らなかったのか、怖いと言わせたいようだ。
変な夢だとは思うが、怖くはない。
彼の幼少期にモヤシにまつわるトラウマを持っているという類の話も聞いたことがない。
怖いと感じる脳の部位が、そういう指令を出したんだろう。
「なにそれ、全然怖くないじゃん」
「でしょ? 本人は怖いらしいんだけど、聞いたほうはそんなに怖くないんだよ」
「あぁ、じゃあ私の夢も怖くないのかもね」
「そうそう気のせいなんだよ」
「でもね、悪い夢を追い払うお守り使ってから、怖いの見るようになったんだよね」
「ドリームキャッチャー?」
「それそれ。昔流行ったヤツ」
彼は元々夢を見ない方だったらしい。
夢を見ないということを友達に酒の席で語った。
同じ職場で働くホステス(?)同士の飲み会だ。
酒の席でのことだったので、さして気にも留めていなかった。
しかし、数日後に友達の一人からそのドリームキャッチャーを貰ったという。
クルマや部屋の装飾目的で一時期流行ったアレだ。
テレビドラマで使われたことにより爆発的に人気が広がり、今ではほとんど見る事は無い。
流行などそういうものだ。
友達によると、一週間連続で使うと幸福になるアイテム、という触れ込みだった。
夢を見ないならこれで試してみてよ、と強引に押し付けられたらしい。
今まで夢を見たことがほとんどない為、その効力は信用していない。
だが、せっかく友達から貰ったものを試さないのも申し訳ない。
そこで使い始めたところ、夢どころかむしろ悪夢を見るようになってしまったのだという。
彼はたった三日で根をあげてしまった。
悪夢は連続した夢であるらしい。
まず一日目に見た夢は、大きな門を開けることだったという。
門を開けたところで夢から覚めたようだ。
二日目にはその門から中に入り、道を歩いている夢。
そして、三日目も道を歩く夢だという。
この長い道をずうっと歩き続けるのが彼にとって非常に大きな恐怖を感じるのだという。
僕には道を歩き続けることのどこが怖いのかが分からない。
終わらない道を歩き続けるのに不安を感じるならまだ分かる。
彼は、歩く行為が怖いのだという。
「友達に事情を話せばいいじゃない」
「うぅん。貰った次の日から連絡取れないんだよね」
あの子忙しいから、といい訳のように続ける。
「捨てちゃえば?」
「それがね――」
捨てても捨てても、手元に戻ってくるんだよね。
僕は得体の知れない恐怖に駆られた。
それではまるで呪いの人形ではないか。
軽はずみな言葉を出したことを僕は後悔した。
この後の流れは恐らく容易に想像できるだろう。
誰か貰ってくれないかな、と言いながら僕を見つめる彼。
客商売である以上、ここで断る選択肢は無いと言っても過言ではない。
じゃあ僕が貰ってあげようか、と言ってしまった。
その日の内に彼の家に赴いた。
正確には翌日の早朝になるのだが。
ソファーに座り待っていると、部屋着に着替えた彼が僕の隣に座る。
これ、と言って僕に件のドリームキャッチャーを渡してきた。
一見すると、普通のドリームキャッチャーに見える。
手のひらよりひとまわり程大きい物体。
だがその完成度は、ほいほいと人に譲渡するような代物でないことは分かる。
ドリームキャッチャーの通常の形は木で出来た円状の枠にクモの巣の形状を模した網が張られている。
そして、その周りを羽根や石またはビーズで装飾する。
石はターコイズかそれに似せた模造石が一般的だ。
枠の上部には、吊るし用の紐がついている。
現物が見たいのであれば、ドリームキャッチャーの画像検索をすれば簡単に見ることが出来る。
だが、それは少し変わった形をしていた。
おかしい所を挙げるとすれば、その飾りだろう。
羽根ではなく、葉のようなヒラメ状のモノがヒラヒラと垂れ下がる。
葉のような、というのは中心部の支柱から細かい枝が無数に生えているからだ。
飾りに使われている石は紫がかってくすんでいる半透明な石だ。
枠である輪は木ではない素材で出来ている。
白いゴツゴツしたモノが編みこまれるように輪を作っている。
子供のころに女の子が作る草花で作った王冠の作りのようだ。
さらに吊るし用の紐がない。
そして、特筆すべきは網が黒いことだ。
ドリームキャッチャーに詳しいわけではないが、大体は色が白い薄い糸またはヒモが使われている。
しかし、その網は非常に緻密で、シルクのような細い糸が細かく網目を作っている。
一言で言えば、高そう、だ。
これをモエさんにあげた友達も、僕に引き取って欲しいというモエさんももったいないとは思わないのだろうか。
「ちょっと説明するね」
そうモエさんは言い、僕に語り始めた。
友達からこれだけは守るように言われたんだけど。
あのね、これは吊るして使うものじゃないんだ。
これは枕の下に入れて使うんだって。
わたしもそれ聞いて壊れないか心配したけど、結構丈夫だから安心して。
それで、絶対に守らなきゃいけないのが、太陽と月の光に当てないことなんだって。
枕の下にあるなら当たるわけないんだけど、これは絶対守って欲しいことだってさ。
それで夢を見るから一週間頑張れだってさ。
そういう使い方もあるのだろう。
僕はむしろ説明が簡単であることに安堵した。
長々続くようでは僕のハードディスクでは覚えきれない。
枕の下に置いて寝る。
太陽光・月光に当てない。
これだけだ。
説明が終わり、僕に渡し終わると安心した表情のモエさんは僕を誘惑してきた。
もちろん、僕にはそっちの気はない。
早々にその部屋を後にした。
太陽が眩しい時間。
僕にとっては就寝時間だ。
枕の下に置き、期待も不安も無く眠りについた。
昔、母親と一緒に上野に遊びに行った。
動物園は僕にとって最も行きたくない場所の一つだ。
動物が嫌いなわけではない。
あの匂いがダメなのだ。
夏の暑い時期に行ったのも問題があったようだ。
とにかく僕は初めての動物園で二度と行きたくなくなってしまった。
そして今。
あの匂いが僕を包んだ。
嫌な気分だ。
目の前にある見上げるような大きさの門。
Permesivanelacitta`dolente
permesivaneletternodolore
permesivatralaperdutagente.
Giustiziamosseilmioaltofattore
fecemiladivinapodestate
lasommasapi"enzaelprimoamore.
Dinanziamenonfuorcosecreate
senonetterneeioetternoduro.
Lasciateognesperanzavoichintrate
門にはそう刻まれてあった。
はっきり言ってさっぱり意味が分からない。
日本語でも英語でもないことぐらいが辛うじて分かる程度だ。
パル? メ シ バ ネ ラ?
何だか良く分からない文章を読むことほど苦痛なことは無い。
当然のように無視した。
真っ黒な巨大な門は細かい彫刻がいくつもあり、手の込んだものと一目で分かるものだ。
だが、周りにはその門以外には何も見当たらない。
文字通り、何もだ。
周りは白い空間が延々と広がり、その黒い門の存在感が際立つ。
門というのは通常は入り口か出口であるはずだから、その入り口たる建物があってしかるべきだ。
白い空間にぽつんとその大きな門以外は、ない。
してはいけないことだが、僕は裏手に周り込んだ。
どうやら裏表がないらしい。
例の長い文章が刻まれ、先ほどまで見ていた光景と全く同じものがそこにはあった。
さて、どうやって開けるか。
試しにその門を思い切り押してみた。
意外なことにその門は見た目と違い、非常に軽い音を立てて、簡単に開いた。
ピリピリとアラーム音が鳴る。
携帯を掴み、停止ボタンを押す。
携帯電話を目覚まし時計にしている人は多いだろう。
僕もその一人だ。
今まで見たものは間違いなくモエさんの言っていた悪夢なのだろう。
珍しいことではないが、夢を見ているときにそれには気付かなかった。
あの現実感は脳が夢を見ている証拠にもなる。
起きて初めて夢を見ていたことに気付かされた。
早速モエさんにメールを送り、先ほどまで見ていた夢の内容と共に感想を言った。
次は歩く夢か。
そう考えながら、バイトに行く準備を始めた。
その日眠りに着こうとすると、バイトを斡旋してくれた先輩に食事に誘われた。
先輩に誘われるということは、それは決定事項に等しい。
選択肢は、はい又はイエスのみ。
徹夜で飲み明かし、しかも財布をなくすという不幸に会った。
僕は次の日に一睡も出来ないままバイトに行くと言う苦行を行う羽目にもなった。
慣れているからどうと言うこともないが、眠くて仕方が無い。
巨大な門が後ろにある。
ああそういえばさっき門を開けたな、と一人ごちる。
前には道が続いていた。
たしか裏手に周った時は裏面がなかったはずだが、今は目の前に道が広がっている。
幅十メートル程の広い道だが、橋と言ってもいいだろう。
その道幅の両端には暗闇があり、道ということが分かる。
もし後ろに門が無ければどちらが進行方向かすら分からない。
それほど何もない道が続いていた。
前に進まなくてはならないという不思議な義務感が僕を包む。
門とは逆方向に歩き始めた。
先が続き、道の終わりが見えない。
ただ道の外側は深い深い闇が広がっているのが分かる。
これに落ちたら助からないだろうな、と想像する。
ただ黙々と歩き続ける。
終わりが無い。
時間感覚も無い。
さっき歩き始めたばかりのような気もするが、何日も歩いているような気もする。
終わりの無い恐怖か。
確かにぞっとする。
足を踏み出すのを躊躇する。
歩き続けるのが怖い。
ピリピリとアラーム音が鳴る。
あれ? ここは?
僕は自分が今起きたことに気がついた。
だが場所はベッドの上ではない。
何故か公園のベンチの上で寝ていた。
バイトの帰りに力尽きて仮眠をしたのだろうか。
覚えていない。
何時間寝ていたのか検討もつかないが、アラームが鳴っているならばそろそろ行く準備をしなければならないのだろう。
そういえば一週間連続で見るんだよな、この夢は。
面倒な夢だな。
面倒なことは嫌いだ。
歩くことが怖いという意味も分かった。
確かに一週間もあの夢を見たくない。
僕の中で黒い行動原理が働き始める。
家に帰り、枕の下にあるドリームキャッチャーをゴミ袋に入れて、捨てた。
お客様からのプレゼントを捨てるなど、言語道断だ。
だがこれは譲ってもらったものだからプレゼントじゃない。
僕はそう自分に言い聞かせ、罪悪感も一緒に捨てる努力をした。
次の日にはモエさんが言ったことは正しかったということが分かった。
捨てたところで、それは戻ってきていた。
正確には枕の下にあるのに気付いた。
何故か外で起きて、家に帰り、ベッドで寝る。
起きたらまた別の場所。
家に帰り、枕をめくるとそこにはドリームキャッチャーがあるのだ。
またも僕は歩き続けた。
依然として道に終わりは見えない。
一歩一歩が恐怖に変換される。
歩きたくない。
だが歩かないといけないという強い気持ちが働き、足を止めることはできない。
ピリピリとアラーム音が鳴る。
またか。
今度はクルマの中にいた。
初日以外はいつも起きる場所はベッドではない。
一体どういうことなんだろう。
今回は確かにベッドの中で寝たはずだ。
気付いたら、クルマの中。
モエさんにメールを送る。
返事は返ってこない。
最早作業と化した一日を無難にこなす。
アルバイトに労働基準法が立法趣旨通りに適用されることは少ない。
僕は週七日毎日働いている。
はっきり言って、こんなペースでは体が持たないだろう。
後に、予想通り僕は体を壊してしまう。
今となっては後悔している。
だが当時の僕は全く根拠の無い自信と、生活費のための必要性があった。
歩き続けると五日程前に見た巨大な門があった。
あの意味不明な文字が羅列してある黒い門だ。
ここが終点ってことか。
入った時と同じように門を開け、中に入る。
今度は階段。
下に向かって階段が伸びていた。
例によって終わりが見えない。
疲労はない。
下り続ける。
依然として恐怖感がある。
この恐怖感の源泉が分からない。
ただ何となく怖いというものだ。
そして、それがとてつもなく怖いだけだ。
一体何段の階段を踏みしめたのだろう。
時間の基準となるものはない。
だが遂に終わりが見えた。
巨大な円形のホールに辿り着く。
そこの中心にテーブルと椅子がある。
テーブルの正面には女が座っている。
女は薄い布を羽織っている。
髪が長く、体形から女と称するが、正直人間とは思えない。
そして顔がない。
あるべきパーツが一つも無い。
白と灰色に紫を少し足すとあんな血の気の無い顔色が出来るんだろう。
足を進ませる度に訪れた恐怖は、目の前の女にコンバートしたようだ。
この女を見るのは苦痛を感じるほど怖い。
異常な恐怖感。
ドーパミンが頭の中で沸騰し、ノルアドレナリンが全速で体中を駆け巡っているのが分かる。
席に着くと、女は身を出して僕にグラスを差し出す。
グラスを持つ手には爪が無い。
腕では血管らしきものが皮膚の下でのた打ち回っている。
千匹のミミズを細長い風船に入れるとあんな感じになるのだろうか。
顔の無いのっぺりとした丸い部分の中央がミチミチと音を立てて裂ける。
口なのか?赤黒い泡をブクブクと出しながらその裂け目から音を出した。
「……どウぞ」
声が響く。
彼女は一杯のグラスに注がれたモノを勧める。
何故かそのグラスにすら恐怖を感じる。
理由は分からないが怖い。
だが、勧めを断るのも怖い。
目の前の女を見るだけでも怖い。
ここに居たくない。
グラスを手に取るかどうか悩む。
ピリピリとアラーム音が鳴る。
起きて愕然とする。
僕の今の状態だ。
後二日で終わってくれるのだろうか。
夢の内容からして幸せになれるとはとても思えない。
恐怖心が頭に纏わりつく。
ただ飲み物を勧められただけに過ぎないが、それが恐ろしい。
単に道を歩き、階段を上り、そして席に着く。
何が怖いのかが分からない。
だが確実に恐怖が僕を支配する。
動悸が治まらない。
今の夢は見てはいけないものだという後悔。
怖さは具体的に二種類あった。
一つはカオス過ぎる夢の展開に、先が読めないという状況からくるもの。
このままどうなってしまうのかと言う恐怖。
それに抗えない恐怖。
そしてもう一つは、夢から起きた時の恐怖。
何故僕は今、ビルの屋上にいるのだ。
フェンスに足をかけているのだ。
起きるのがあと少し遅かったら……。
もうあの夢を見たくない。
僕は椅子に座っている。
目の前の女からしきりにグラスを勧められているのだ。
――先ほどからずっと。
いつからだっけ。
考えた末にグラスを取り、一気にあおった。
腹の底から叫びたいほどの恐怖心が全身を駆け巡るが、僕は席を立つことも拒否することも出来ない。
――美味しいなこれ。
美味しい?
どういう仕掛けかは分からないが、目の前に料理が現れる。
体は拒否反応を示すが、言うことをきかない。
もっと飲みたい、食べたい。
――何を考えているんだ?
――僕は一体?
目の前には肉。
白い大きな皿に盛られたステーキ用の肉がある。
――何故? そんな物食べてる場合じゃない!
ジュウジュウと肉の焼ける匂いが食欲を刺激する。
――臭い、あの動物園のニオイだ。
あり合せのポテトやニンジンはない。
――席を立たなくては。
僕はあの妙に甘いニンジンは嫌いなので、嬉しく感じている。
――ここから逃げ出さないと。
――僕に自由意志がないことも自覚する。
お腹すいた。
――僕の体は僕の意思に反して、動き出す。
――徐々に意識も薄れ、混濁してくる。
ニンジンは嫌い。
――この展開は何なのだという恐怖。
――相反する思考が駆け巡る。
――どうして料理が出てくるのか。
飲み物はワインかな。
――女が何者で、僕をどうしようというのか。
ステーキ食べたい。
――僕が僕でなくなっている。
――何を考えていたのか、何を考えているのか分からない。
ああ、美味しそうだ。
もう食べてもいいのかな。
――食べちゃダメだ。
さあ食べようというときにテーブルを挟んで同席している女が口を開く。
「ゴ ハん食 ベテも い イよ。代ヮ りにちょう ダい、首」
僕はそういうものかと思い、ステーキ用のナイフを掴む。
――嫌だ。
そして自分の首にゆっくり押し当てる。
――やめろ、何やってるんだ。
切味の悪いナイフは中々進んでいかない。
力を込めるが皮膚に傷がつく程度だ。
早くステーキたべたい。
「前 後ニ引かナきゃ、ノ コギリみタい に。ギこぎ コギ こぎコギコキ ゙ コ」
それはそうだ。
その言葉に納得し、力を込め前後に動かすと、刃が食い込んだ。
肉を切る感触が手に伝わろうとする。
誰かが叫ぶ声がする。
目が覚めると駅のホームだった。
地面が目の前にある。
苦しい。
駅員が僕を押さえつけている。
「何やってるんですか!!?? 危ないですよ!!!」
押さえつけられて、目の前に電車が走り抜けていることに気がつく。
……危うく轢かれるところだった。
「また訳わかんねえ話持ってきたなぁ」
先輩は夢の内容を否定する。
僕だって分からない。
だが怖いのだ。
恐怖に駆られた僕は先輩に助けを求めた。
案の定先輩は否定的な意見だ。
僕が持ってきたドリームキャッチャーをいじくり回しながら、悪態をつく。
意識的に連続した夢を見るのは、意識的に心臓を止めるのと一緒で不可能だ、と。
フロイトに言わせれば性欲、ユングならコンプレックス。
好きなほうを選べ。
それがお前の夢の正体だ。
先輩はいつでも手厳しい。
「信じていないんなら、このドリームキャッチャー貰って下さいよ」
「いいのか? 結構高そうだけど」
「いいですよ、貰ってくれるんですか!?」
「病気以外なら何でもウエルカムだ、俺は」
笑いながらカバンにそれをしまう。
あらかたの説明をした後に、くれぐれも気をつけてください、と先輩に言った。
先輩は、分かった分かった、と少しも分かっていない返事をした。
先輩と別れた後、モエさんに電話をした。
僕はこの件は降りるということをはっきり伝えるためだ。
ドリームキャッチャーを返してくれと言われるかもしれないことは考えていなかった。
正直に言うべきかどうか。
だが、それは電話越しに声が聞こえた時点で杞憂に終わった。
『お客様のお掛けになった電話番号は――』
機械的な返事が聞こえたあと、彼にゴミ箱代わりに使われたことを、僕は理解した。
きっと彼もあれを使うことよりも、処分したかったのだろう。
気持ちは分かる。
僕だって同じことを先輩にしたのだ。
ベッドの上で目が覚めたのは一週間ぶりだ。
あのまま最終日を迎えていたら、僕はどうなっていたのだろうか。
確かめたくも無いが。
先輩が気になったので、早速電話をする。
「おお、今掛けようとしてたんだわ。見たぞ、夢。すげえな、どうなってんだ」
先輩は上機嫌だ。
興奮しているとも浮かれている風とも聞こえる。
外にいるのか、クルマや雑音が聞こえた。
「黒い大きい門出ましたか?」
「おお。ロダンか、洒落てんなぁ。いいモン見れたわ。あ、いい門か」
「え? なんて書いてあったか分かったんですか?」
「はぁ? ……教えてやらん。ホントに学生かお前? パンキョーだ、パンキョウ」
「勘弁してくださいよ。僕もう少しで死に掛けたんですよ」
「あのなあ、端折るけど、悪いことしたのはお前の方だ」
「え? だって僕、殺されかけたんですよ?」
「住居不法侵入だ。警告文がガッツリ書いてあったんだよ」
夢の世界で不法行為も無いものだと思うが。
大体、僕は英語の単位を去年落とした。
日本語だって怪しい僕が、英語以外の言語を理解できるわけが無い。
「何言ってるんですか? 先輩も入ったんでしょ?」
「入るわけねえだろ。周りウロウロして、しばらくしたら起きたわ」
何と。
単純なことを見落としていた。
それが答えだったのだ。
目から鱗とはこのことだ。
そんなことよりも、と先輩は続けた。
「このドリームキャッチャーの網、何か分かるか?」
「知りませんよ」
「髪の毛。枠は骨だな」
「はぁ!?」
「薄気味悪いもの作るよなあ。まあ、もうどうでもいいけど」
「いや、先輩。それ捨てても戻ってきますよ? どうするんですか?」
「月と太陽に当てちゃいけないんだろ?」
「はい。絶対ダメらしいです」
先輩はわははと豪快に笑う。
電話越しで笑わないで下さい、耳が痛いです。
絶対ダメなのかあ困ったなあ、と先輩は言ってこう続けた。
「今俺はコイツと日光浴中です。あ、石にヒビはいった。うは、煙出てきた。何だコレくっさぁ。野良犬みたいなニオイがするぞ」
簡単なことだったのだ。
危険に飛び込まなければいい。
門に入らなければ夢から覚めて、おかしなことは起きない。
絶対やってはいけないことを、やればいい。
先輩のことだ、念入りに月光浴もさせたのだろう。
とんちみたいな答えだった。
僕があの夢を見始めてから先輩に渡すまでは六日間。
残り一日で先輩にバトンタッチ出来た。
もう一日経っていたらどうなっていたのだろう。
あの顔の無い女は僕をどうしていたのだろう。
恐らく僕の想像は当たっている。
新聞の片隅に僕の名前が載っておしまいだ。
自殺者など日本には年で三万二千人以上いる。
ざっと考えても一日で九〇人近くだ。
九〇分の一にならなかった事を今は喜ぶとしよう。
その後、少なくとも先輩や僕が悪夢にうなされるようなことは無くなった。
あの門の文字、長く続く道に下に続く階段、のっぺらぼうの女。
先輩は、本を読めそうすれば大体見当がつくぞ、と言って僕を突き放した。
……実は未だに僕はその本を読んでいない。
だが先輩はそんな謎などに初めから興味が無かったのだ。
最短ルートで攻略してしまった。
初めから幸福になりたいと思わない人間に幸福になれるアイテムなど必要ないのだ。
全くバチ当たりだな、先輩は。
僕は感謝と共にそう呟いた。