岐阜県に住む吉野さん(仮名)から聞いた話だ。
大学に通っていた頃、真夏の夜のことだったという。昼間に残っていた湿気がようやく引き、風が肌に触れると、ほっと息が抜けるような時間帯だった。空には雲がなく、街灯の届かない場所では星が点々と浮かんで見えた。
最寄り駅前の飲み会を終え、吉野さんは自転車で帰路についていた。深酒ではないが、身体の芯がゆるむ程度には酒が回っている。ペダルを踏む感覚も軽く、いつも通る道が、どこかよそよそしく感じられたという。
その道の先、街灯の真下に、黒い塊があった。
最初は、ゴミ袋か、何かが落ちているだけだと思った。だが、自転車のライトがその輪郭をなぞった瞬間、形がおかしいと気づいた。塊は人の形をしていた。地面にしゃがみ込み、背中を丸め、肩を大きく上下させている。
呼吸音が、聞こえた。
「……またか」
独り言のようにそう呟き、そのまま通り過ぎた。酔いつぶれた誰かだろう。関わって面倒なことになる気はなかった。
だが、数十メートル進んだところで、足が止まった。胸の奥に、引っかかる感覚が残っていた。理由は分からない。ただ、そのまま帰ることができなかった。
自転車をUターンさせ、再び街灯の下に戻る。
「大丈夫ですか」
声をかけながら、距離を詰めた。そのとき、しゃがみ込んでいた人物が、ゆっくりと顔を上げた。
月明かりに照らされたその顔は、人の顔として、どこか足りていなかった。皮膚の表面は均一でなく、溶けたまま固まったように歪んでいる。目の位置も定まらず、鼻や口と呼べるものが、ただ肉の盛り上がりとしてそこにあった。
見た瞬間、喉が鳴った。
声を出した覚えはない。ただ、身体が一歩、無意識に引いた。
その反応を見て、男は口を開いた。声だけは、妙に普通だった。
「俺の顔に……何か付いてるのか」
問いかけは、責める調子でも、助けを求めるものでもなかった。確認するような、平坦な声だった。
答える前に、頭が真っ白になった。吉野さんは自転車に飛び乗り、全力で漕ぎ出していた。
背後から、音が追ってくる気がした。足音なのか、呼吸なのか、それとも自分の鼓動なのか、判別できない。振り返ることはできなかった。振り返った瞬間、戻れなくなると、はっきり分かっていた。
道を曲がり、角を折れ、ただ明るい方向へと逃げ続けた。気づいたときには、知らない小さな公園に入り込んでいた。夜の公園は人気がなく、木々が擦れ合う音と、錆びたブランコの鎖が微かに鳴っているだけだった。
その中で、足音が聞こえた。
コツ……コツ……
一定の間隔で、こちらに近づいてくる。
考えるより先に、視界に入った公園のトイレへと駆け込んだ。扉を開け、最奥の個室に滑り込み、鍵をかける。
中は暗く、湿った空気がこもっていた。汗が背中を伝い、呼吸の音がやけに大きく響く。
足音が、トイレの中に入ってきた。
コツ……コツ……
次いで、ドアの音。
ギィ……バタン。
また、ギィ……バタン。
一つずつ、個室の扉が開けられていく音だった。近づいてくるたびに、空気が重くなる。自分のいる扉の前で止まる気配はなかった。それが、かえって怖かった。
ドアノブに手をかけ、必死に押さえた。息を殺し、音を立てないようにした。
しばらくして、足音が遠ざかった。
コツ……コツ……
外へ出ていく音がした。
逃げたのか、それとも、別の場所へ行ったのか。分からないまま、動けなかった。
時間の感覚が失われていく。どれくらい経ったのか分からない。やがて、トイレの小窓から、薄く白い光が差し込んできた。夜が、終わりかけている。
そっと鍵を外し、扉を開ける。
公園には誰もいなかった。朝の気配だけが残り、鳥の声が遠くで響いていた。
安堵とともに、身体の力が抜ける。その瞬間、視界の端で、何かが動いた。
トイレの高い位置にある小窓。そのガラス越しに、顔があった。
あの顔だった。
崩れたままの輪郭が、無表情でこちらを向いている。目の位置が定まらないはずなのに、視線だけは、確かに合っていた。
その顔が、そこにあった理由は分からない。いつからいたのかも分からない。ただ、夜が明けるまで、あの場所に「いた」という事実だけが、はっきりと伝わってきた。
吉野さんは声を出せなかった。ただ、背中に冷たいものが流れ落ちる感覚を抱えたまま、その場を離れた。
それ以来、あの公園には近づいていない。トイレも使っていない。だが、時々、夜道を自転車で走っていると、街灯の下に、しゃがみ込む影を見かけることがあるという。
そのたびに、確認する前に、目を逸らす。
自分が見ているのか、それとも、見られているのか。
その違いを、もう確かめる気にはなれないそうだ。
(了)