無音の試聴室、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

怪談 n+2026 オリジナル作品

無音の試聴室|第一章 四十三秒 iwa+

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八人が振り向いた。

私のヘッドホンでは、何も鳴っていなかった。画面の手前に座っていた女性は、膝の鞄を押さえながら振り返った。隣の男性は天井を見て、そのあと左側の通路へ顔を向けた。奥の六人にも少しずつ差はあったが、最後には、全員の顔が舞台左脇の出入口へ向いていた。
 再生位置を戻して、音量を確かめた。十秒前には、椅子の座面が跳ね上がる音と、誰かの咳があった。問題の箇所を過ぎると、男性が「いまので終わりですか」と尋ねた。そのあいだの四十三秒だけが抜けている。誰かが音量を下げたというより、その部分だけ別の録音に差し替えたように、耳につく空調の音までなくなっていた。
 字幕用の原稿には、そこを「無音」とする指示があった。私は一度、括弧の中へその二文字を入力し、保存前に消した。画面の八人が、音のない四十三秒を見ているようには思えなかったからだ。

 二〇二五年三月六日、汐庭市立舟橋会館の事業担当、沖野真帆さんから動画が届いた。二日後に予定されている字幕の確認会までに、十五分の記録映像へ字幕をつけてほしいという依頼だった。私はフリーで映像の字幕を作っている。人の言葉を書き起こすだけでなく、話者が画面にいないときには誰が話しているかを示し、話の理解に必要な音を文字にする。
 舟橋会館は、前年の春から耐震工事と空調の入替えで休館していた。三月三十日の再開館に合わせ、昔の催しを振り返る短い映像を上映する。その前に、職員と地元の利用者を集めた内覧リハーサルがあり、今回届いた動画は、その日の客席を後方から撮ったものだった。歴史映像そのものと、観客が見ている様子の二本を使って、上映時の情報保障について確かめたいと沖野さんは説明していた。
 歴史映像にも四十三秒の間があった。一九八九年の設備試験という見出しのあと、白っぽい壁と椅子一脚が映り、途中で壁だけになる。音声はほとんど聞こえない。映像はやがて別の日の子供向け人形劇へ切り替わる。設備試験が何を調べたものなのか、説明はついていなかった。

 私は沖野さんへ、内覧の日にどんな音がしたのか尋ねた。送信から二十分ほどで電話がかかってきた。沖野さんはまず、音響担当の宮坂さんにも確認していると言った。
「廊下から、どなたかが返事をされたんです。そこは映っていないですよね」
「返事の前に、誰かが呼びかけましたか」
「ええ。もう出ていいか、というような」
 沖野さんはそこで言い直した。もう出ていいか、と言ったのが返事の側だったかもしれない。舞台袖に人が入っていたので、その人と音響の方が話しているのだと思ったという。私が言葉を確認しようとすると、正確なところは宮坂さんへ聞いてほしいと頼まれた。
 次に届いた宮坂さんのメールは短かった。私は、機材の型番が並ぶ回答を予想していたが、音の話は一行しかなかった。

 資料一 宮坂亮氏からのメール抜粋
 三月六日、十六時四分

 会場では館内連絡の声を聞きました。ただし、私が聞いたのは「まだいます」です。沖野さんのおっしゃる言葉との前後関係は確認できません。元のファイルは削除せず、そのままにしてください。

 館内連絡が上映用の音へ混じったのなら、客席カメラのマイクにも残るはずだった。もっとも、カメラが客席の音を直接拾っていたとは限らない。調整卓から送られた音を記録していた場合、観客の耳と録音が違っていてもおかしくない。私は音響の専門家ではないので、そのことも含めて質問を送った。
 宮坂さんからは、今回のカメラは内蔵マイクで録音したと返ってきた。歴史映像のファイルにも、客席の動画にも、同じ長さの間がある。二つが別々に録音されたものなら、「無音」と二文字置けば、客席で何も起こらなかった映像が出来上がる。私は返事を出す前に、もう一度八人の顔を見た。

 夕方、作業表へ「音声状態を現地で確認」と書き込んだ。そこへ沖野さんから、三月八日の確認会を少人数に切り替えるという連絡が来た。私も予定を空けられるなら来てほしい。八人のうち、何人かが、いま見ている動画は当日と違うと言っているのだという。
「事故があったわけではないんです」
 電話の中で、沖野さんはそのように言った。客席の誰かが気分を悪くしたのかと私が聞いたあとだった。
「倒れた方はいません。宮坂さんが、少し椅子につまずかれたくらいで。でも、職員がいないところから声がしたので」
 つまずいた宮坂さんは、動画では舞台の上にも客席にもいなかった。その時間、舞台脇の廊下にいたという。私は人のいない廊下と聞いて、宮坂さんのいる廊下と何が違うのかを尋ねそびれた。沖野さんは他の電話へ出なければならず、話はそこで終わった。

 私は客席の四十三秒を、一秒ずつ進めた。八人の動きは完全にそろってはいない。最初に通路へ顔を向けたのは前方右側の男性で、次が鞄を持った女性。その後ろに座っていた女性は、周囲を見渡してから、手元の紙に何かを書いた。彼女だけが、一度も舞台左脇を長く見ていなかった。
 沖野さんに座席の並びを尋ねると、その人は井草歩さんだと教えられた。地域の文化行事で、字幕や文字による案内が使えるかを確かめる活動をしている。難聴があり、今回も利用者側の意見をもらうために招いたという。名前を聞いてから見直すと、ほかの人の顔を追う動きは、音の方向を探している様子とは違って見えた。
 動画の時刻表示は、十四時十七分三十二秒で問題の区間へ入った。十四時十八分十五秒で、男性の「いまので終わりですか」が聞こえる。時計は途中で止まらず、客席の動きにも飛びはない。座席の背へ引っかけてあった灰色の上着が、持ち主の動きに合わせて少しずつずれていく。四十三秒のあいだに、誰かが椅子から立ち上がることはなかった。
 最後の三秒で、前方の男性が両手を口元へ近づけた。何かを大きな声で言うときの姿勢だった。彼の口が動き、その横で鞄の女性がうなずく。男性が手を下ろすところから、音が戻っていた。

 作業机の上には、取材映像に使う小さな紙のメモが何枚も置いてあった。話者名、固有名詞、読み方。いつもなら確認できなかった箇所に付箋を立て、まとめて先方へ送る。今回は、四十三秒の前後へ二枚の付箋を置いた。その間に書くべきものが、音声の欠落なのか、客席の行動なのか、まだ決められなかった。
 別件の字幕が、机の隅で修正を待っていた。今夜のうちに三本を返すつもりだったのに、四十三秒の手前で止まったまま、時計だけが進んでいる。井草さんが紙へ目を落とすたび、私は再生位置を戻した。何を知らされずにそこへ座っていたのかが、ほかの七人の顔より気になり始めていた。
 その夜の最後に、沖野さんから、当日の確認用紙の写真が送られてきた。参加者がそれぞれ書いたものを、個人名が読めないようにして撮影した写真だった。自由記入欄の一つに、太いペンで次のように記されていた。

 声がしたと皆さんがおっしゃった時間に、こちらへ説明がありませんでした。何が起きたのか、文字でも知らせてください。

 その下へ、別の筆跡で、小さく返答が書き足されていた。

 放送はありませんでした。

 私は写真を閉じずに、横へ客席の動画を並べた。前方の男性が手を口へ寄せるところで止めると、井草さんが紙から顔を上げた。画面の中では、その人が何を言ったかを尋ねようとしているように見えた。三月八日の作業予定から別の映像を一つ外し、私は舟橋会館へ行くことにした。

会館の無人の客席と、奥の白いスクリーン。
挿絵:AI生成による架空の場面

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。登場する人物、団体、場所、出来事、取材、録音、映像および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

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