成瀬さんの家は、作業室から歩いて十分ほどのところにあった。
細い道の奥にある平屋で、玄関の庇だけが薄いトタンだった。引戸の脇に曇りガラスの窓があり、内側のカーテンが途中まで閉まっていた。
家主の片桐澄江さんは、その隣の家から出てきた。成瀬さんの荷物を整理するかもしれない、と佐伯さんが先に連絡を入れてくれていた。
私は建物の返却に関係するものを確認したいと説明し、写真の撮影についても了承を得た。
片桐さんは、小さな玄関に上がらず、鍵を開ける野間さんの手元を見ていた。
「ああ、それ、まだ使ってたのね」
野間さんが持っていたのは、木綿の紐のついた鍵だった。
「取り替えましたか」
「いいえ。替えようにも、一度ちゃんと返してもらわないと」
玄関の戸は、少し持ち上げないと動かなかった。野間さんはそれを知っていて、取っ手を引く前に、下側へ左手を添えた。
家の中には六畳の部屋と小さな台所があった。
寝具はなかった。箪笥もない。押入れの戸は外して壁に立てかけられており、中には空の衣装箱が二つ重なっていた。
それでも、空き家には見えなかった。
台所の丸いテーブルには小皿が伏せてあり、その隣に青い琺瑯のマグがあった。取っ手の近くの縁が少し欠け、金属の色が出ていた。流しの水切りには、洗った布巾が一枚かけられていた。
野間さんは窓を開けたあと、やかんを持ち上げ、残った水を捨てた。
誰にも頼まれていなかった。
私を見てから、彼はやかんを流しに置いた。
「いつものことなので」

片桐さんによれば、成瀬さんはここへ住んでいた。
共同作業室ができたころに借り、二〇一五年に一度、引き払う話が出た。家具と寝具の大半は運び出したものの、退去の立会いが延期になった。
家賃のままでは負担になるだろうと、片桐さんは、その後の料金を家財の保管場所としての使用料に変えた。成瀬さん名義で、いまも支払いが続いているという。
「住んではいないんですね」
「泊まってはないでしょうね」
片桐さんは、住んでいないとは答えなかった。
「でも、使っているから」
台所と隣の部屋のあいだには、色が少し変わった敷居があった。片桐さんはその手前に立ち、奥を見た。
「いらないものは捨てていいって、言ってくれればいいんですけどね」
「どなたに」
「成瀬さんに」
すぐ横にいる野間さんへ言ったのかと思ったが、片桐さんは私のほうを見ていた。
ここでは、名前の取り違えは起きなかった。
六畳の部屋に、低い作業台が残っていた。
上には、三十センチほどの木の舟があった。船体はできているが、甲板の半分に板が張られていない。小さな木片が菓子の空き箱に仕分けされ、紙やすりの裏に番号が書かれていた。
杉浦さんのノートの、船底のやすり、という行を思い出した。
野間さんは、舟を手に取ろうとしてやめた。
「これ、もう少しなんです」
「野間さんが作っていたんですか」
「少しだけ」
「どのあたりですか」
彼は甲板の端を指した。
新しい木材は、まだ色が白かった。その隣は飴色に近い。船体の内側には、接着剤を多く使ったところと、ほとんどはみ出しのないところがあった。
一つの模型を何年もかけて作れば、作り手の手つきが変わることはある。途中で道具を替えたかもしれない。作り手が替わった証拠にはならない。
ただ、仕事の担当を替わるたびに、同じ家で同じ舟を作り続ける理由は、やはりわからなかった。
棚の下には、古い配送袋が束ねられていた。宛名はすべて成瀬修だった。
受取人の名前を確認できるものはなかったが、不在票が何枚か残っていた。裏面に、再配達を頼んだ時間や、受け取った品物のメモが書かれている。
杉浦さんのノートで見た、丸みのある字。
まだ誰の字か確かめていない、角ばった字。
野間さんの、小さく傾いた字。
同じ宛名に、異なる人の生活の字がついていた。
資料五 私宅に残されていた不在票の裏面
二〇一八年六月
金曜 十六時から
薄板、二袋
台所下 私がしまった
二〇二一年五月
受取り済
部品足りず。電話した。
来週、また来る。
二〇二四年十一月
次は家にいる。
十三時以降なら受け取れる。
野間さんは最後のメモを見て、自分の字だと認めた。
「次は家にいる、というのは」
「ここにいる、ということです」
「自分の家に、とは思わなかった?」
彼は少し腹を立てたように見えた。
「他に、何て書けばよかったんですか」
私は質問の仕方を変えるべきだった。
調べているあいだ、片桐さんはときどき自宅へ戻った。私たちを監視する様子はなかった。家の持主として、知らない人に中を見せる範囲を決めているだけだった。
料金の支払記録を見せてもらえるかと頼むと、成瀬さん本人の了承があれば、と断られた。
本人への連絡方法を尋ねると、以前の番号しか知らないという。
「今度来たら、連絡するように言います」
「成瀬さんが来ることがあるんですか」
「来てるんじゃないですか」
片桐さんは庭先から台所を見た。
「窓が開いているから」
彼女もまた、本人を見たとは言わなかった。
帰る前に、私は机の中を見てよいか確かめた。片桐さんは許したが、手紙などは開かず、一覧にするだけにしてほしいと言った。
引出しには、成瀬さん宛ての未開封の封書が数通あった。広告と、料金の通知らしいものだった。
その下に、古い引越し業者の見積りの控えがあった。二〇一五年三月のものだった。
運ぶものの欄には、寝具、箪笥、小型冷蔵庫。運ばないものの欄には、作業台、材料、その他小物。
宛先欄は別の紙に記載とあり、その紙はなかった。
私はそこで、成瀬さんが一度はここを去る準備をしたことを、書類で確認した。
玄関を閉めるとき、野間さんは中へ戻った。
火を使っていないのに、コンロのつまみを確かめた。水道を締め、青いマグを小皿の上へ伏せた。
入口からそれを見ていた片桐さんが、いつものように言った。
「今度こそ、全部持っていってもらえるといいんですけど」
野間さんは、はい、と返事をした。
外へ出てから私は、何に返事をしたのか聞いた。
彼は鍵をかけながら、家の中を覗こうとした。
「荷物のことです」
「誰の荷物か、というところは?」
鍵がうまく抜けず、野間さんは二度、取っ手を揺すった。
「中にいると、そういう分け方をしなくなるんです」
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。団体、場所、人物、取材、年月日および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。