杉浦千里さんは、作業室を離れて六年たっても、手帳を捨てていなかった。
近所の喫茶店で会うと、彼女は最初に、私の依頼が佐伯さんから来ていることを確かめた。閉鎖すると聞き、残したものが気になっていたという。
「捨てるものと返すものは、分けてくださいね」
仕事の説明をする前に、杉浦さんから言われた。
持ってきたのは、薄い大学ノート二冊だった。会計帳簿ではない。買うもの、会った人、済ませる用事を、その都度書いた私用の控えだった。
見返しには、〈作業室・成瀬さん休み中〉とあった。
「正式な担当になるより前から、手伝われていたんですね」
「怪我をなさってね。最初は短いあいだの予定でした」
成瀬さんは木材を運んでいるときに足を滑らせ、左手首を痛めた。利き手ではなかったが、車を運転できず、重いものも持てなかった。杉浦さんは当時、作業室で紙の立体模型を作っており、週に二、三日は顔を出していた。
封筒を出す、電話を受ける、荷物を運ぶ。それくらいならできると思って引き受けたという。

ノートの初めは、細かな説明が多かった。
電球の型番、封筒を買う店、研ぎに出す刃物の包み方。途中から説明が短くなり、名前と動詞だけになる。
〈小野寺さん 水 食べる〉
その一行を見て、私は野間さんの話をした。
「まだ行ってらっしゃるんですか」
杉浦さんは驚いたようだった。
「杉浦さんも?」
「行きましたよ。成瀬さんに頼まれて」
「食事を取りに行くんですか」
「いいえ。食べに行くんです」
「どうして」
彼女はノートを自分のほうへ寄せた。
「どうしてだったかしら」
誰かに会う予定があったのだろうか。先払いをしていたのだろうか。私がいくつか可能性を挙げると、杉浦さんは、そうだったかもしれない、と言った。
ただ、食事代を立て替えた記憶はないという。
「自分で食べたものは、自分で払いますから」
野間さんと同じ説明だった。
私は、ノートの記述を日付ごとに写させてもらった。
ここに載せるのは、本人の了承を得た部分だけである。作業室の利用者の連絡先や、無関係な私用は省いてある。
資料四 杉浦千里氏の控え
二〇一四年九月二十五日
北窓
封筒 角二 五十
綿テープ
片桐さんへ挨拶
家の鍵 一本 預かる
二〇一四年十月一日
小野寺さん 六時二十分
薬は飲んでいないと答える
魚、小皿あり
二〇一四年十月三日
配達 午後
代金不要
受取後、台所の棚の下
私は十月一日の〈薬は飲んでいないと答える〉について聞いた。
杉浦さんは、そこだけを指で隠すように押さえた。
「これ、私の字なんですよね」
「そう見えます」
「私、薬を飲んでいなかったんです」
「当時のご自分のことですか」
「ええ。でも、店の人が知りたいのは、成瀬さんのことだったんでしょうね」
彼女はしばらく、その行を見ていた。
「考えたことがなかった」
家の鍵を預かったのは、配達を待つためだった。
成瀬さんは休んでいるあいだ、離れたところに住む親類の家に身を寄せていた。自宅に届く部材を受け取れない。注文を止めれば済むのではないかと思ったが、何度かに分かれて送られてくる模型の材料だったらしい。
杉浦さんは、仕事帰りに家へ寄り、郵便受けを見て、配達の指定があれば待った。
「成瀬さんの家で待つのは、嫌ではなかったですか」
「片桐さんもすぐそばにいらっしゃるし。長くいても一時間くらいです」
「荷物を受け取るだけですか」
「初めは」
彼女はそう言って、ページをめくった。
後ろのほうには、窓を開ける、机を拭く、といった家の用事が増えていた。その間に、船底のやすり、接着は翌日、というメモがあった。
「舟を作っていたんですか」
「途中まで」
「ご自分のですか」
「いいえ。私のではないと思います」
即答したあと、後半だけ声が小さくなった。
彼女が作業室で作っていたのは、厚紙を組み合わせた建物の模型だった。木材は苦手で、細いものを削ると折ってしまう。
それなのに成瀬さんの家では、床に新聞紙を敷いて、舟の部品を削った覚えがあるという。材料が来るから、続けた。
「作っておいてほしい、と頼まれたんですか」
「言われたかどうかは、覚えていません」
「では、どうして」
杉浦さんは笑った。
「そればかりですね。どうして、って」
責める調子ではなかった。私も、その聞き方ばかりしていることに気づいた。
「すみません。後で返すものを決めるときに、困りそうなので」
「でしょうね」
彼女はノートを閉じた。
「返すと思っていたんですよ。全部。少し使って、続きをやって、戻ってきたら返すんだと」
正式に事務を引き継いだのは二〇一六年だった。
成瀬さんは怪我から復帰していたが、以前のように頻繁には作業室へ来なくなっていた。別の仕事を探しているとも話していた。
退任のとき、杉浦さんは、臨時の用事がまだ残っていると伝えた。
「そうしたら、残ってるものは、そのままでお願いします、と」
原文の記録があるかと聞くと、引継ぎの紙に書いてある、と答えた。作業室で見つけた票のことだった。
「前任者への連絡は不要です、という文は、成瀬さんが?」
「そうです。電話して聞かなくても、いつもどおりやればいい、ということだと思っていました」
「家の退去については」
「片桐さんと成瀬さんのお話だから、私からは」
誰も口を出さなかったために、項目だけが残った。ここまでなら、私にも理解できた。
喫茶店を出る前に、杉浦さんはノートの一か所を開き直した。
二〇一八年十二月のページだった。
〈家 茶碗一つ割る。青のマグは残す〉
「作業室をやめてからね、食器が減った気がして、家じゅう探したことがあるんです」
彼女の住まいは、成瀬さんの家とは別だった。
「結局、見つからなかった。何を探しているのかも、だんだんわからなくなって」
「そのマグのことですか」
「いま、そう思いました」
まだ捨てていなかったら、と彼女は言った。
返してください、と続くのかと思ったが、違った。
「誰のものか、ちゃんと見ておいてください」
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。団体、場所、人物、取材、年月日および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。