小学校一年の頃、モスクワの日本語学校でIQテストを受けた。
父の仕事の都合で一家ごとモスクワに住んでいて、週末だけ補習のような形でその学校へ通っていた。校舎は古く、窓から入る光は夏でも灰色だった。薄い絨毯と、少し歪んだ時計、握ると冷たい階段の手すりを覚えている。
その日、担任の先生は教室に入るなり言った。
「今日はIQテストをやります。終わった人から帰っていいです」
一年生だった自分には、IQが何なのかも分からなかった。問題文には読めない漢字が多く、数字も嫌いだった。マークシートだと分かると、考えずに端から適当に塗った。数分で終えて提出し、教室を出た。
もちろん本当に帰れるわけではない。帰りは皆でバスに乗るため、集合時間まで廊下のベンチで待った。テストの結果がどうなるかなど考えもしなかったし、その日のこと自体、ほどなく忘れた。
半年ほど経った頃、両親から妙な話を聞かされた。
「ウクライナの教育機関ってところから招待状が来てるの。旅行がてら行ってみようか」
あのIQテストの結果が「特異」だったため、追加のテストを受けてほしいという。旅費も滞在費も先方が負担するらしかった。何が特異なのかは教えられなかった。自分も気にせず、遠くへ行けることのほうを喜んでいた。
連れて行かれたのは、キエフ郊外の工業地帯の外れにある建物だった。
中はホテルのロビーに似ていたが、窓がなかった。天井も低く、金属とゴムのようなにおいがした。そこで、流暢な日本語を話す四十代くらいの男が出迎えた。頬がこけ、眼鏡が何度も曇っていたのを覚えている。
「では、被験者本人だけ、こちらへ」
両親と別れ、一人で大きな部屋へ通された。学校の体育館ほどの広さがあったと思う。部屋は暗く、何本もの赤いレーザーだけが見えた。光は周囲の鏡で何度も反射し、そのうちの一本が自分の額の中央に当たっていた。
周囲には、自分と同じくらいの年齢の子どもが四十人ほどいた。白人も黒人もアジア系もいて、皆、額に赤い点を当てられていた。暗闇の中で、知らない言葉があちこちから聞こえていた。
背後から女の声がした。日本語だった。
「頭の位置を変えずに、レーザーを避けてください」
意味が分からなかった。

額に光が当たっている。避けるなら頭を動かすしかない。しかし、頭の位置は変えるなという。何をすればいいのか分からないまま、赤い点を見ようとして目だけを上へ向けた。
しばらくして、右端にいた少女の前で変化が起きた。
少女の額に当たっていたレーザーが動いた。
光は額から外れ、空中で輪を描くように回り、何度か方向を変えた。少女自身が何かをしたようには見えなかった。
すると、自分の後ろにいた係員が言った。
「はい、あなたはもう帰っていいですよ」
自分に向けられた言葉だった。
続いて、別の子どものところでも同じ言葉が聞こえた。それからまた別の場所でも聞こえ、子どもたちは次々に部屋の外へ出された。何の説明もなかった。誰かが騒いだ記憶もない。ただ順番に、試験を終えた者として退出させられていった。
その後は皆で簡単な食事を取り、送迎車で戻った。係員たちは最後までにこやかだった。両親に何のテストだったのか尋ねても、「教育関係のテストらしいよ」としか聞かされていないようだった。旅行になったのだからよかったじゃないか、とも言われた。
それきりだった。
成人してから、ふと思い出して母に尋ねたことがある。
「ねえ、あのウクライナの変なテスト、結局何だったんだろうね」
母はすぐには答えなかった。数秒黙ってから、首をかしげた。
「え? あんた、ウクライナなんて行ってないよ」
母の顔には、冗談を言っている様子がなかった。
それでも私は、あの建物の金属とゴムのにおいを覚えている。暗い部屋にいた子どもたちの声も、右端の少女から離れて動き出した赤い光も覚えている。
そして、ごくたまに鏡を見ていると、額の中央だけがじんわり熱くなることがある。
そのたびに思い出す。
最初のテストでも、あの部屋でも、終わった者に言われたのは同じ言葉だった。
「帰っていいですよ」
[出典:295 :本当にあった怖い名無し:2017/10/15(日) 23:20:32.67 ID:iKpw4H9U0.net]