小さな木造の家だった。外から見れば、ただの古びた一軒家。
けれど中に足を踏み入れたら、そこは空気が濃く、息苦しいほどの閉じられた世界だった。
父と母は、いつも同じようなことを繰り返し口にする。「学校は悪魔の巣窟だ」「外に出たらおまえは喰われる」……まるで壊れた機械みたいに、何年も、毎日。
姉は最初からそれを信じていた。信じるというより、信じるふりをして従っていたのかもしれない。母の言葉をそのまま繰り返し、父に笑顔を向ける。
だけど僕は、どうしても納得できなかった。外には空と光があったし、家の外を歩く人たちは悪魔の顔なんかしていなかった。あの教室で聞いた先生の声も、机の木の匂いも、悪魔のものとは思えなかった。
だから僕は、ある日「学校に行きたい」と言った。それが全ての始まりだった。
父の顔は、ゆっくりと歪んでいった。母は大きく息を吸い込み、僕を睨みつけた。
「外に出たがるのは悪魔が憑いている証拠だ」
その言葉の後、僕は窓を釘で打ち付けられた部屋に押し込まれ、鍵をかけられた。暗くて、ほこりっぽくて、床は冷たかった。ご飯は部屋の隅に置かれ、ドアの隙間から差し込む光は、いつも斜めで、少しずつ動いていった。
日が経つにつれ、父と母の声はもっと鋭くなっていった。
「悪魔を吐き出せ」
「神に祈れ」
僕は何も信じられなかった。神も、悪魔も、父と母も。信じられるのは、目を閉じた時に思い出す学校の机の感触と、そこで聞いた小さな笑い声だけ。
やがて殴られるようになった。理由は何でもよかった。僕が笑ったから、泣いたから、黙っていたから。骨が軋む音を聞いた時、体の奥まで冷たくなった。
その夜、強い痛みと熱で意識が遠のき、気づいたら病院の白い天井が目の前にあった。消毒液の匂いが、あの部屋のほこり臭さと全く違って、胸がきゅっと締まった。
そこには、優しい声の人がいた。手を握ってくれる人、話しかけてくれる人。僕はその声が消えてしまうのが怖くて、何時間も、話せるだけ話し続けた。内容なんて関係なかった。とにかく声を聞かせてほしかった。
でも、そのうち誰も僕の部屋に来なくなった。看護師たちは笑顔を向けても、どこか引いているようだった。僕はしつこくつきまとい、触ってはいけない場所に手を伸ばしたこともあった。そうしないと、また独りぼっちになってしまいそうで。
父と母が迎えに来たのは、それから間もなくのことだった。「息子は家では育てられない」と言っていたくせに、「考えを改めた」と笑って。病院の人たちは、何の疑いもなく僕を引き渡した。
あの日の帰り道、家が近づくほどに息が苦しくなった。夜になると、再び釘で打ち付けられた部屋の中。あの白い天井はもう、どこにもなかった。
二度目の大けがを負ったのは、それから一年後。殴られた瞬間、何かが切れたような音がして、僕は床に倒れ込んだ。目の端に、姉が冷めた目でこちらを見ているのが映った。
病院に運ばれた時、もう我慢できなかった。医師に、看護師に、誰でもいい、父と母のことを全部話した。僕の中でそれは精一杯の叫びだった。
けれど、僕の言葉は途切れ途切れで、時々意味をなさなかったらしい。外の世界での会話をほとんど知らない僕の話し方は、幼稚で奇妙で、信じてもらえるようなものじゃなかった。看護師の腕を掴んで離さなかった僕を、皆はまた「厄介な子」と呼んだ。
骨がくっつき、傷が塞がったある日、父と母が現れた。病院の人は、また何も疑わず僕を渡した。
帰り道の空は、やけに赤かった。あれが最後に見た外の景色だった。
その後のことは、誰も知らない。僕自身も覚えていないのかもしれない。
ただ、どこかの棚の奥に、僕のカルテだけが残っているはずだ。そこには、血の色や傷の長さや、僕の言葉の断片が、無機質な字で並んでいる。
昔は、そんなことがよくあったらしい。
笑う人も、泣く人も、誰も僕を助けられなかった。
医療の白い壁は、あまりにも高く、そして冷たかった。
[出典:377 :1/2:2008/04/18(金) 21:55:20 ID:n40GOhum0]
 
	
	