父の若い頃の話を、私は何度も聞かされてきた。
港の匂いを思い出すたびに、あの奇妙な話が頭をよぎる。
父は二十代の半ば、遠洋航路の船に乗っていた。
港に着けば、船員たちはみな上陸して酒や女や飯にありつく。だが、当番の者だけは船に残らねばならなかった。
その日、船に残ったのは、父の同僚の一人。年は若いが、少しおつむの弱いと評判の男だった。
性格はおだやかで、誰からも嫌われない。けれども、どこか世間の仕組みがわかっていない、そんな人だったらしい。
夕暮れ、港の灯りが水面に揺れるころ、その男のもとへひとりの老人が現れた。
みすぼらしい、という言葉すら生ぬるいほどの姿。服はほつれ、袖は裂け、裸足の足には深いひび割れが走っていた。
老人は甲板に立つその男を見上げ、かすれ声で言った。
「……何か食べさせてはもらえんかのう」
船の食事は、乗組員の人数分だけ用意されている。
余分はない。
だが、その男は迷いもなく、自分の分の食事を差し出したという。
飯と味噌汁と、塩気の強い焼き魚。
老人は黙々とそれを口に運び、最後の一粒まで食べきった。
やがて、器を置き、皺だらけの手で男の肩を軽く叩く。
「お前、一代限りじゃが……」
そう言いかけて、老人は目を細め、低く何事かをつぶやいた。
何を言ったのか、父もその男も覚えていない。
ただ、その直後から、男の身の上が奇妙に変わり始めた。
港を離れて数年後、父が再び彼と会ったとき、男は見違えるほどの暮らしぶりになっていた。
広い庭のある洋館に住み、家の中には見たこともない調度品が並び、客用の部屋がいくつもある。
理由を問えば、男は曖昧に笑うだけで、何も説明しなかったという。
ただ「長くは続かんと思う」とだけ呟いた。
噂では、あの老人は弘法大師その人だったと言われている。
だが、それが本当かどうか、誰にもわからない。
父はその話をするとき、必ず最後にこう付け加える。
「……あれから数年後、そいつは全部失ったそうだ。家も、財産も、家族もな」
理由はわからない。病気だったとも、誰かに騙されたとも聞く。
ただ、一代限りと言われたことだけは、本当だったらしい。
――――
ところで、似たような話をもうひとつ聞いたことがある。
それは父方の祖父の若い頃の話だ。
祖父は戦後まもなく、商売で成功し、村一番の大きな家に住んでいた。
ある日、ふらりと家を訪ねてきた老人が「何でもいいから食べるものを」と言った。
見るからに浮浪者で、髪も髭も伸び放題。
祖父は気の毒に思い、家の台所で炊き立ての飯を食べさせてやったそうだ。
ところが、食事を終えた老人は、深く頭を下げたあと、妙なことを口にした。
「……申し訳ないが、この家には悪いことが起きます」
祖父はその言葉に腹を立て、老人を追い出した。
すると一週間後、家は原因不明の火事で全焼した。
怪我人はなかったが、祖父はそれから商売も傾き、結局、借金だけを残して死んだ。
父の同僚に現れた老人と、祖父の家に現れた老人。
服装も、年格好も、声の低さも、不思議とよく似ている。
別人だったのか、それとも同じ者が時を隔てて現れたのか、今では確かめようもない。
ひとつだけ、私が知っているのは――どちらの家の者も、その後、長くは栄えなかったということだ。
港町を歩いていて、ふと背後にぼろをまとった影が見えたとき、私は必ず振り返らずに通り過ぎる。
声をかけられる前に。
そして、もし呼び止められても、耳を塞いでしまうだろう。
あの声に応えた者の末路を、私はよく知っているからだ。
[出典:384 :可愛い奥様@\(^o^)/:2014/08/07(木) 08:33:18.22 ID:4JyKYAWk0.net]