中学一年の春、祖父が死んだ。
あまりに唐突な、何の前触れもない死だった。
亡くなったのは、祖母と二人で行った温泉旅行から帰ってきたその日の夜だったらしい。
心筋梗塞、というのが医者の診断だった。
朝まで元気に歩き回っていた人間が、その日の夕方には冷たくなって横たわっている。
そんなことが、現実に起こるなんて、その時の俺には信じがたいことだった。
祖父は健康そのものの人だった。
俺が物心ついてから、一度も病院通いをする姿を見たことがない。
日曜には庭の草むしりをし、夕方には軽く酒を飲みながらプロ野球を観る。
そんな当たり前の風景が、これからも続くと、俺は疑いもしなかった。
葬式はあっけなく終わった。
大人たちは泣き疲れたような顔をしていたが、俺はただ、現実感のないまま座っていた。
ふと、祖母の家に行くことになった。
葬式の後片付けと、祖父が使っていた荷物の整理のためだ。
祖母の家は、古い木造で、床のきしむ音が妙に大きく響く。
玄関を入ると、畳の匂いと線香の煙が混ざった、重たい空気に包まれた。
リビングの隅に、祖父の旅行カバンが置きっぱなしになっていた。
持ち手はまだ、外の冷たい空気をわずかに残しているようだった。
母がそのカバンを開けた。
衣服のたたまれ方が几帳面で、祖父らしいと一瞬思った。
奥から、黄色いビニール包装に入った使い捨てカメラが出てきた。
「これ、今回の旅行で使ったやつだね」
母がそう言いながら手に取る。
夕方の買い物ついでに、近くの写真屋で現像してもらうことになった。
写真が出来上がったのは、その日の夕飯時だった。
台所に集まった俺たちは、ちゃぶ台の上に並べられた写真を一枚ずつ見ていった。
写っているのは、温泉街の観光名所、桜の並木、川沿いの足湯……そして、ほとんどが祖母の笑顔。
祖父の姿は、どこにもなかった。
「そういえば、この人、自分が撮られるの嫌いだったからね」
祖母が言った。
知らない人にカメラを渡して撮ってもらうなんて、とても嫌がる人だったらしい。
「今思えば、無理にでも一枚、二人で撮ればよかったねえ……」
そうしみじみ言う祖母の声が、やけに静かに響いた。
その時、弟が声をあげた。
「じいちゃん、写ってるやつあったよ!」
小さな手に、一枚の写真を握っている。
展望台で撮られたらしい写真だった。
背景には観光客がぽつぽつと立っていて、その手前で祖母がこちらに笑いかけている。
その少し後ろ、観光客の間に、無表情の祖父が立っていた。
俺は息を止めた。
その顔は、確かに祖父だった。
服も、よく見慣れたグレーのジャンパーと帽子。
だが、その表情には生気がなかった。
まるで、こちらを見ているのではなく、カメラの奥の何かを見つめているようだった。
「変ねえ……ここに行ったとき、おじいさんは写真を撮ってたけど、誰かにシャッターを頼んだ覚えはないのよ」
祖母が首をかしげた。
父が笑って「そっくりさんじゃない?」と言ったが、誰も笑わなかった。
祖母は小さく「私の思い違いかしらねえ」とつぶやき、その写真を束の中に戻した。
帰りの車の中で、父が言った。
「この世には自分とそっくりの人間が三人いるっていうだろ? きっとそのうちの一人だよ」
冗談めかした声だったが、俺はふと、以前読んだ怪談を思い出していた。
自分と同じ姿の人間に出会うと死ぬ――そんな話だった。
祖父は、旅行から帰った日に死んだ。
あの写真に写っていたのは、生きていた祖父なのか、それとも……。
母が「馬鹿なこと言わないで」と言って、窓の外を見た。
それ以上、誰も何も話さなかった。
それからしばらくして、俺はふと、あの写真のことを思い出した。
夜、祖母の家の仏壇に線香をあげたとき、写真立ての横に、あの展望台の写真が立てかけられていた。
祖父の姿は……そこにはなかった。
代わりに、祖母の背後に立っていた観光客の一人が、こちらを無表情に見つめていた。
俺はその場から逃げるように帰った。
もう、あの写真のことを誰にも話さないと決めた。
(了)