学生時代に一度だけ、口外すまいと固く決めた出来事がある。
だが年月を経ても胸の奥底に澱のように沈み、夜ごと耳鳴りとともに蘇る。黙っていても腐臭のように漏れ出しそうで、ついにこうして文字にしてしまうのだ。
大学を出て間もなく、私は短期間だけオーストラリアに滞在していた。都市から離れ、バスも通わぬ僻地に小さな町があった。牧場を営む知人を訪ねて数日滞在した折、町の人々が決して笑いを交えて話さない一族の噂を耳にした。谷を越えたさらに奥地に、地図に載らぬ集落があるという。そこには外の世界と関わりを絶った血縁だけの一族が住み、代々「外と混ざらぬこと」を守ってきたと。
口にした瞬間に空気が変わるのを感じた。誰も詳しい説明をしない。ただ視線を逸らし「行くな」とだけ言う。私はそれを土地の迷信めいた話と軽く考えてしまった。むしろ禁じられることで、若さ特有の愚かしい好奇心が燃え立ったのだ。
翌日、牧場を抜け出し、谷を越えて森に分け入った。踏み跡も曖昧な獣道をたどり、半日ほどで鬱蒼とした林が開けた。そこに現れたのは奇妙な光景だった。崩れかけのトタン小屋が点々と並び、洗濯物のような布切れが枝に引っかかっている。物音もなく、人の気配もないはずなのに、確かに誰かの視線が木陰から突き刺さってきた。
足を進めると、泥にまみれた裸足の子どもが一人、じっとこちらを見ていた。瞳は澄んでいるのに焦点が定まらず、笑っているのか泣いているのか分からぬ表情を浮かべている。声をかけても返事はなく、やがて茂みの奥へすっと消えた。追おうとしたが、不意に強い臭気に喉が詰まった。獣の死骸のようでありながら、それ以上にどこか人間めいた腐敗の匂いだった。
その時、背後から掠れた声がした。「帰れ」――そう囁かれた気がして振り向くと、複数の人影が小屋の隙間からこちらを窺っていた。老人かと思えば顔は幼く、子どもかと思えば異様に皺が深い。年齢の感覚が狂うような歪んだ顔立ちが、暗がりから次々と浮かび上がっては沈んでいく。
足が竦んで動けなかった。だが次の瞬間、彼らが一斉に口を開いた。声にならないうめきが重なり合い、風のように耳を満たした。意味を成さぬはずなのに、私には奇妙な命令のように聞こえた。「ここに残れ」「混ざれ」「外に帰すな」……。
気がつけば地面に倒れており、夕陽が差し込んでいた。頭の中は割れるように痛み、身体は泥だらけだった。必死に道を戻り、ようやく牧場に戻った時には夜が迫っていた。迎えてくれた知人の顔が凍りついたのを今も覚えている。私が踏み込んだ場所のことを、彼は決して説明しなかった。ただ黙って翌日の飛行機の手配をし、二度と戻るなとだけ言った。
数年後、その地で隔絶した一族が警察により発見されたという報道を目にした。近親の血だけで繰り返し世代を重ね、外の世界を知らぬまま暮らしていたという。私は記事を読み進めながら、背筋が凍った。あの時見た子どもの濁った瞳、歪んだ顔、耳にこびりついた声――報道にはそんなことは一切触れられていない。
新聞を閉じた後も、耳の奥であのざわめきが消えない。「混ざれ」「残れ」……私は逃げ延びたつもりでいるが、本当に外の世界に戻ってきたのだろうか。ふと夜中に鏡を覗くたび、どこか輪郭が滲み、あの歪んだ顔立ちが重なって見えるのだ。
[出典:コルト一家の近親相姦]
解説
「山奥に眠る声」は、民俗的な怪異譚の形式をとりながら、実は“隔絶”そのものを怪異化した作品だ。
舞台はオーストラリアの僻地だが、描かれているのは国や種族を越えた普遍的恐怖――「閉ざされた血の環」と「混ざることへの禁忌」。
そしてその中心にあるのは、“声”という見えない感染媒体である。
導入の第一文「口外すまいと固く決めた出来事がある」で、すでに語り手は“語ることで再び触れる”という呪いを自覚している。
つまりこの物語は、封印を破る行為そのものとして始まっている。
語る=混ざる、というテーマがこの冒頭一行にすでに潜む。
語りの緊張は一貫して低音だが、そこに漂うのは湿った音の感覚――「腐臭」「掠れた声」「うめき」「ざわめき」など、すべてが聴覚的。
この作品は視覚的恐怖(姿形)ではなく聴覚による侵蝕を使う。
怪異が耳から入り、最後には自分の声や輪郭まで侵されていく。
まさに“音で混ざる”話なのだ。
中盤、禁忌の地へ足を踏み入れる展開は、怪談の典型的な“越境”構造。
町の人々の沈黙、「行くな」という一言、無人の集落、そして“見られている”感覚。
ここで描かれるのは単なる異常な人々ではなく、人と非人の境目が崩れた共同体だ。
「老人のような子ども」「子どものような老人」――これは近親繁殖の外形的結果としての奇形表現であり、同時に“世代という時間の循環”の象徴でもある。
つまりこの集落では時間が止まっている。
年齢が混ざり、声が混ざり、境界が溶ける。
その静けさこそが恐ろしい。
語り手はその“時間の外”から侵入した異物であり、彼らにとって「混ざれ」「残れ」という命令は、自らの閉じた系を保つための同化要求なのだ。
その瞬間、怪異は単なる他者の恐怖から、“人間社会がもつ最も原初的な構造”――
同質を維持するための暴力的欲求へと変質する。
「声にならないうめきが重なり合い、風のように耳を満たした」
この一文が秀逸だ。
風と声が一体化し、“自然現象のように襲ってくる意思”として描かれる。
風=環境、声=意識。
つまり、彼らの“閉じた世界”自体が生き物のように喋っている。
語り手は人間の群れではなく、“音としての共同体”に取り込まれかけたのだ。
物語の“反転点”は、意識を失って倒れた後に訪れる。
彼は生きて帰ったが、「外」に戻った確証がない。
後年、ニュースで事件が明るみに出ても、そこに記された“現実”と自分の“記憶”の齟齬が広がる。
この乖離が作品の肝だ。
現実の報道では語られない部分――「声」「歪んだ顔」「命令のような囁き」――こそが、
実際には外界に流出した“内なる感染”なのかもしれない。
ラストの「鏡に映る歪んだ輪郭」で、語り手は“混ざれ”という命令を体現している。
彼は逃げたのではなく、形を変えて“連れてきてしまった”。
つまり彼自身が、“外”に出た最初の“混ざり”そのものになったのだ。
作品の恐怖は、「血」でも「奇形」でもなく、“同化”のメタファーとしての音声汚染にある。
声とは本来、人をつなぐものだ。
だがここでは逆に、境界を溶かす毒として作用する。
声を聞いた者は、“言語の共有”を通して同化していく。
この構図は、近代的な「情報感染」や「文化的均質化」にも重なる。
異文化を見に行ったつもりが、異文化のほうがこちらを飲み込む――
この逆転が、グローバル時代の寓話としても読める。
もうひとつ注目すべきは、「外に帰すな」という一節。
この言葉は、彼らの恐怖でもある。
異質なものを外に戻せば、自分たちが“外”になってしまう。
閉鎖空間が外界と接触した瞬間、どちらが“内”か“外”かが崩壊する。
語り手が今も“外にいる”のか“内に取り込まれている”のか判然としない結末は、
その崩壊を読者に体験させる仕掛けだ。
最後の疑問形「私は本当に外の世界に戻ってきたのだろうか」は、
自己確認の言葉であると同時に、“外”にいる読者へ向けた感染の呼び水でもある。
語りを読んだ時点で、読者もまたその声を“聞いた”のだから。
「山奥に眠る声」は、
・民族的タブーを利用しながら、
・“言葉と声による同化の恐怖”を描き、
・読者をその外部と内部の曖昧な境界に立たせる。
怪談の主題が「触れる」から「聞く」へと変化している点において、
これは非常に現代的な進化形だ。
そして何より恐ろしいのは、
語り手が「書くことによって再びその声を外に出してしまった」点。
この解説を読むあなたもまた、その声を一度“読んだ=聞いた”ことになる。
――つまり、今この瞬間も“混ざり”は進行中なのだ。