義両親の家に呼び出された日のことを、私は一生忘れないと思う。
季節は春だった。花粉で目の周りがかゆくて、だけどそれ以上に息が詰まるような空気が、玄関をくぐった瞬間に肌にまとわりついてきた。
応接間のテーブルに、封筒が三つ並んでいた。
ひとつ目は、メールのプリントアウト。
ふたつ目は、写真。ホテルの出入りや、公園のベンチに並ぶ姿……言い訳の余地もないものばかり。
最後の封筒には、小さな検査結果の紙が折りたたまれて入っていた。
DNA鑑定。私の子供と、夫の血のつながりを否定する結果。
義母が吐き捨てるように言った。
「この人とはもう別れなさい」
私は返す言葉もなく、ただ頭の中が真っ白になっていった。
けれど、私の隣に座っていた夫は、何の感情も浮かべずにこう言った。
「知ってたよ」
ああ、そうか、もう全部終わったんだな。
そう思って、形式的な謝罪をして、これからの話をしようとした。慰謝料や親権、住居の整理……
でも、彼がそれを遮った。
「俺は、別れない」
呆れたように、でも笑っていた。
あの笑い方が、最初の違和感だった。
彼は言った。
「結婚前から全部知ってた。子供のことも、浮気のことも。知ってても、好きだったから結婚したんだよ」
義両親が「正気に戻れ」と騒ぎ出しても、彼は静かに私の手を取って言った。
「俺たちのことだから、放っておいてよ」
家を出たあと、春の風が吹いていたのに、指先が冷たくて仕方なかった。
歩きながら彼が言った。
「楽しいな」
「何が……?」と私が聞き返すと、「全部」って。
そこで、ようやく気づいたんだと思う。
怒ってない、悲しんでもいない。あの人、ただ楽しんでるだけだった。
私が罪悪感で沈んでいく様子も、証拠を突きつけられて呆然とする姿も。
「ねえ、本当に怒ってないの?」
「怒ってないよ」
「別れた方が、いいんじゃない……?」
「だから、別れないって言ってるでしょ」
私は、何をすればいいのかわからなくなっていた。
「何か……償いとか、した方がいい?」
「ううん。何もしないでいい。好きなことしてくれれば」
それは優しさじゃなかった。あの時は理解できなかったけど、今ならわかる。
私の自由が、彼の掌の中にあるという前提での発言だった。
だから、訊いてみた。
「……あなたも、同じようなことしてる?」
彼は首を振った。即答だった。
「俺は、しない。君しかいらない」
――不気味だった。
優しさじゃなくて、何か違う感情のかたまりが、その言葉の奥に見えた気がした。
その夜、彼はパソコンを開いて、「ちょっと見せたいものがあるんだ」と言った。
デスクトップに並ぶフォルダのひとつに、私の旧姓がアルファベットで記されていた。
開かれた中には、無数の画像。
私が笑っている写真、泣いている写真、寝ている写真、玄関を出る瞬間の写真……
すべて盗撮だった。
だけど、それ以上に、背筋を凍らせたのは別のものだった。
小学生の私が写っていた。
運動会、遠足、教室での集合写真……明らかに学校の業者が撮ったものだった。
どうやって?
彼は私より四歳上だ。同じ小学校だったけど、学年は違う。
写真の中に、彼は写っていない。
でも、写真そのものは本物だった。私の家にも、同じものがある。
「あのときから……ずっと好きだったんだよ」
彼は笑いながらそう言った。
「引くよね。でも、本当のことを伝えたかったんだ。俺、全部知ってたよって。君の過去も、今も、これからも、ずっと知っていたい」
脳の中がしびれていくようだった。
現実感がなかった。足がふらついて、その場に崩れ落ちた。
泣いた。こんなこと、許されるはずがない。でも……
「泣いてる君も、好きだよ」
あの言葉で、私は壊れてしまった。
それから数週間。
彼は、何もなかったかのように優しかった。朝ごはんを作って、子供を送り迎えして、洗濯もして、私に花を買ってくる。
ふとした時に、スマホのカメラがこちらを向いている気がしても、気のせいと思いたくなるくらい、彼の行動は完璧だった。
けれど、外に出ようとすると、いつも視線を感じた。
スマホの通知が途絶えると、すぐに彼からの連絡が入る。
「どこにいるの?」
「何してるの?」
GPSなんて切ってあるはずなのに、どうやって……
浮気のことを責められる筋合いはなかった。私が全面的に悪かったから。
だけど、これは違う。こんな静かな牢屋のような生活、狂ってる。
弁護士に相談しようと考えたこともあった。でも、きっと彼は法的手段さえ、ゲームとして楽しむだろう。
私が追い詰められて、崩れていく姿を、また写真に撮るのだろう。
逃げたい。
だけど、彼は言ったことがある。
「どこに逃げても見つけるよ。君のことなら、何だってわかるんだから」
そのとき、私は笑って「冗談でしょ」と返したけど――本当だったんだと思う。
いま、私の書斎の窓の外に、黒い影が立っている。
スマホには通知が来ていない。GPSはオフにしてあるはず。
でも、彼はそこにいる。笑っている。
あの時のままの顔で、ずっと、私を見ている。
……あの人が言っていた。
「泣いてる君も好きだよ」って。
だから、もう私は、笑えないのかもしれない。
[出典:954 :名無しさん@HOME:2013/11/23(土) 18:23:52.12 0]