義両親に呼び出された日のことを、私は忘れられない。
春だった。花粉で目がかゆいはずなのに、それよりも先に、玄関の空気が喉を締めつけた。
応接間のテーブルに封筒が三つ並んでいた。
ひとつは、私のメールの履歴。
ひとつは、ホテルや公園での写真。
最後の封筒には、DNA鑑定の結果。
子どもは、夫の子ではなかった。
義母が低い声で言った。
「この人とは別れなさい」
私は何も言えなかった。隣に座る夫を見た。怒鳴るか、立ち上がるか、泣くか、どれかだと思っていた。
「知ってたよ」
そう言ったのは夫だった。
義両親が騒ぐ中、彼は落ち着いたまま続けた。
「結婚前から知ってた。子どものことも、浮気のことも」
私の中で何かが崩れた。終わったのだと思った。謝罪して、慰謝料と親権の話をして、形だけでも区切りをつけるしかないと。
「俺は、別れない」
彼は笑っていた。
家を出てからも、彼は機嫌がよかった。春の風が吹いているのに、私は凍えた。
「楽しいな」
「何が」
「全部」
怒っていない。悲しんでもいない。ただ、状況そのものを味わっている目だった。私が沈んでいく様子を観察している目。
「償った方がいい?」
「何もしなくていい。好きにして」
優しさの形をしていたが、自由を許す言葉ではなかった。すでに囲いの中にいる者に向ける言い方だった。
その夜、彼はパソコンを開いた。
「見せたいものがある」
デスクトップの一角に、私の旧姓があった。
中には、私の写真。笑っている顔、泣いている顔、寝ている姿、玄関を出る瞬間。撮った覚えのない角度ばかりだった。
そして、さらに古い写真があった。
小学生の私。運動会、遠足、集合写真。学校の業者が撮ったものだ。家にも同じ写真がある。
「どうしてこれがあるの」
「同じ小学校だったろ」
四歳違い。同じ時間に校舎にいたことはない。写真の中に彼はいない。
「ずっと好きだったんだよ」
彼は笑っていた。
「君の過去も、今も、これからも、全部知っていたい」
そのとき初めて、浮気よりも重いものを理解した。私は裏切ったが、彼は最初から侵入していた。
それから数週間、彼は完璧な夫だった。朝食を作り、子どもを送り、洗濯をし、花を買って帰る。
だが、外に出ると視線を感じた。スマホの通知が途切れると、すぐにメッセージが来る。
「どこにいるの」
「何してるの」
GPSは切っている。アプリも削除した。それでも、位置を知っているかのようなタイミングだった。
弁護士を考えた。だが、想像できた。彼は法廷すら楽しむだろう。私が追い詰められていく過程を、また記録する。
ある夜、彼は言った。
「どこに逃げても見つけるよ」
冗談の声色だった。
今、書斎の窓の外に黒い影が立っている。
スマホは静かだ。通知はない。
けれど、そこにいる。
あのときと同じ顔で、ただ観察している。
私は、彼から逃げたいのか、それとも見られていたいのか、わからなくなっている。
泣いている私が好きだと言われたあの日から、
私は泣くたびに、どこかで誰かが満足している気がする。
もしかしたら、窓の外に立っているのは、彼ではないのかもしれない。
ずっと前から、見られる側にいたのは、私のほうだったのだから。
[出典:954 :名無しさん@HOME:2013/11/23(土) 18:23:52.12 0]