今でも東北の山間の診療所に勤めていた古参職員の話を思い返すと、あの湿った夏の夜気が蘇るようだ。
山道に面した小さな待合所は、昼でも薄暗い木立に囲まれていた。夜ともなれば、虫の鳴き声と川の水音だけが周囲を満たし、人の気配はまるで消える。蛍光灯は点いてはいたが、虫の影でちらつき、待つ者の顔を青白く染めるだけだった。
その夜、勤務を終えた職員は、終バスを待ちながらベンチに腰掛けていた。汗のにじむ首筋をイヤホンのコードが貼りつき、曲の低いリズムが耳を震わせていた。手元のスマートフォンにはほとんど電波が入らず、ただバスの来る方向を無言で見つめていた。身体は緊張していないはずなのに、指先には小さな痺れが残っていたという。
その時、不意に道路の先から車のライトが差し込んだ。深い闇を裂く白い光に、一瞬目を細める。音もなく近づいてきたのは、ワゴンタイプの車だった。停まった拍子に砂利がぱらぱらと跳ね、暗闇の中で小さな火花のように見えた。
運転席の窓がゆっくりと下がる。そこから現れたのは、やつれた顔をした男だった。
「すみません……道を教えていただきたいんです」
声はかすれていて、妙に喉の奥に引っかかるような調子だった。
男は、休暇を利用して家族で訪れたが、子供が熱を出したため救急病院に行きたいのだが道が分からない、と言った。車内からは冷気が流れ出し、真夏の夜気を押しのけて肌に刺さった。異常な冷たさだった、と職員は後に語っている。
助手席には青ざめた女が座っていた。その視線は前を向いたまま、焦点が合っていないように見えたという。後部座席では幼い男の子が小さな体を揺らし、タオルケットに包まれた何かを扇ぐ仕草をしていた。布越しにのぞくのは、もうひとりの小さな子供の輪郭。だが顔までは見えなかった。
職員は親切心から道を教えた。少し先で折り返し、町へ下れば救急病院がある、と。夫婦は何度も頭を下げ、礼を述べると、車は闇に吸い込まれるように走り去った。残された職員の腕には、なぜか冷気がまだ張りついていた。
それから幾晩も過ぎ、山の空気が徐々に乾いてくる頃だった。木々の葉はまだ青さを残していたが、朝夕の風には確かな冷えが混じり始めていた。診療所に勤める職員の耳に、村の広場で囁かれる噂が届いたのはその頃だ。
「山で子供の遺体が見つかったらしい」
誰もが声を潜めながらも、どこか確かめ合うように話していた。山菜を採りに入った人が偶然見つけたという。土に半ば埋もれ、骨の白さだけが目を突く。野生動物に齧られた痕跡もあった、と。
その話を聞いた瞬間、職員の胸に鈍い重みが落ちた。あの夜、車内にいた小さな影が思い出されたのだ。暗闇の中で懸命にタオルケットを扇いでいた幼い手。布の下のものは、果たして熱にうなされる子供だったのか。
噂を確かめるように、職員は知り合いのバス運転手に声を掛けた。車庫の片隅、整備の音が響く中で尋ねたのだ。
「山で見つかったっていう、あの子のこと……本当なんですか?」
運転手はしばらく口を閉ざし、煙草の先をにらんでいた。そして低い声で応じた。
「本当だ。しかもな……捕まったのは、あんたに道を尋ねてきたあの夫婦らしい」
その言葉に、職員の耳は一瞬音を失った。工場の鉄板を打つような騒音すら遠ざかり、鼓動だけが大きく響いた。思い返す。助手席の女の虚ろな目、後部座席で布をあおぐ小さな腕。あの冷気。あの異様な沈黙。
警察が掴んだ事実はさらに重かった。夫婦の供述によると、旅先で幼い娘が「事故」で命を落としたという。慌てた彼らは逮捕を恐れ、遺体を山に埋めようとした。つまり――あの夜、彼らが求めていたのは救急病院ではなく、人目に付かぬ道だった。
職員の背筋を冷汗がつたった。
娘を助けるためではなく、葬るための道を尋ねられていたのか。あの夜、自分は死者を運ぶ車を導いてしまったのか。
噂話は秋風に乗るように村中へ広がった。誰もが口を噤みながらも、その夜の冷気を思い出していた。
職員は夜毎、その光景を夢に見た。
待合所に停まる車。ゆっくりと下がる窓。頬を刺す冷気。そして、布の下に沈む小さな形。目を逸らそうとしても、夢の中では何度でも同じ場面が繰り返された。
目が覚めても、耳の奥にはまだ声が残っていた。「すみません……道を教えていただきたいんです」。
あれは本当に声だったのか。あるいは口の動きに合わせて、自分の頭が勝手に声を当てはめたのか。夏の夜にしては冷たすぎる空気と、母親の生気のない表情を思えば、あの場に漂っていたのは、生者のものではなかったのかもしれない。
秋が深まる頃、村の待合所は改修工事で取り壊された。朽ちかけたベンチや灯りが撤去され、更地にはただ草が揺れるばかりとなった。
だが取り壊しの数日前、通りがかった者が奇妙なものを見たと話している。
夜、無人の待合所の前に、一台のワゴン車が停まっていた。ライトは消え、車体は闇に沈んでいたという。近づけば、窓の内側から冷気が押し出されるように漂ってきた、と。
誰も乗っていないはずなのに、後部座席には小さな影が二つ、並んで揺れていた。
その話を耳にした時、職員はただ黙り込んだ。
あの夫婦が何を恐れ、何を隠そうとしたのかは、もう裁判の記録に残るだけだ。けれど、自分に向けられた「道を教えてほしい」という言葉は、いまも胸に焼きついている。
あれは本当に、夫婦の口から洩れたものだったのか。
それとも――遺された子供自身が、安らげる場所を探していたのか。
その後、彼が夜道で人に道を尋ねられることは二度となかった。だが不思議なことに、耳の奥にあの声が響くと、必ず街灯の下に小さな影が立っている気がして振り返ってしまうのだ。
道を教えてしまったのは、生者にではなく、既に冷たくなった誰かだったのかもしれない。
そして今もその影は、次に道を指し示す人間を待っているのかもしれない。
(了)