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短編 r+ ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間 ほんとにあった怖い話

足跡の残り香 r+7,019

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二十六年のあいだにいろいろあったはずなのに、今でも頭に焼きついて離れない光景は、たった一度の、あの出来事だけだ。

人間は本当に恐怖で凍りつくと、声を出すこともできず、身体の自由もきかなくなる。あの日の自分はまさにそれだった。

四年前に会社へ入り、最初の二年間は社員寮に住んでいた。といっても社員寮と呼ぶのは形ばかりで、実際は古びた一軒家だった。建てられたのは昭和四十年代らしく、床はぎしぎし鳴り、湿気のこもった匂いがいつも漂っていた。
同僚の袴田と二人で暮らしていたが、寮長や管理人といった存在はいない。だから半分は下宿のような気安さもあり、半分は取り残された廃墟のような心細さもあった。

最初の半年は夜勤を免除されていた。だから生活はまだ普通のリズムだったが、半年が過ぎたある日、初めて夜勤を終えた翌日のことだ。
身体が泥のように重く、帰ってすぐ布団へ倒れ込んだ。
夢を見ていたのかどうかは覚えていない。気がつくと、耳ざわりな音が耳を突き刺してきた。最初は工事の音かと思ったが、目が覚めていくにつれて、それは声だと気づいた。

「ブッ殺すぞ……ブッ殺すぞ……殺してやる……ブッ殺すぞ!」

絶叫だった。甲高いとも低いともつかない、不自然に歪んだ声。子供かと思えば老婆のようでもあり、どちらとも言えない。声に合わせて、壁か床か、何か硬いものを叩きつける轟音も混じっていた。
隣家からだ。
あまりの剣幕に、思考がしばらく止まった。耳を疑ったが、現実にその声は続いている。
「……なんてところに住んでしまったんだ」
そう思うしかなかった。

翌日、会社でこの話をした。すると先輩たちは案外あっさりした反応だった。
「ああ、あの隣の家な。ちょっとおかしい人が住んでるんだよ。気にすんな、そのうち慣れる」
まるでゴミ出しの曜日を説明するみたいに、軽い調子でそう言われた。
どうやら社内では有名らしかった。

それから数ヶ月、確かに慣れた。奇声が聞こえても、ああまたか、と耳を塞いで寝ることができた。人間の適応力は恐ろしい。だが、慣れるということは油断することでもあった。

ある夜勤明け、布団に入ろうとしたときだ。
「ブッ殺すぞ!」
声がまたした。
しかも今度は隣ではなく、窓のすぐ外から聞こえた。
ぞわりと背中が冷えた。
「……誰を殺すつもりなんだ?」
その瞬間、声の刃先が自分へ向いているのではないか、という考えが頭に差し込んできた。慌てて否定した。自分に向けられているはずがない、と思い込み、目を閉じて眠りに逃げ込んだ。

それからしばらくは静かだった。嵐が通り過ぎたあとのように、不自然なほど。
だから油断したのだと思う。

ある晩、会社から帰り、寮の玄関を開けた。
服を脱ぎ、風呂に入った。熱い湯で汗と疲れを流し、ほっと息を吐いた。
バスタオルを肩にかけ、二階の部屋に戻ろうと階段をのぼった。
そのときだった。

視界の端に、人影が映った。
背後から、同じ階段をのぼってくる。
「ああ、袴田か」
一瞬そう思った。だがすぐに違和感に気づいた。
今夜、袴田は夜勤で会社にいる。ここにいるはずがない。

背筋が氷の棒を突き立てられたように冷えた。
「じゃあ、誰なんだ」

振り返ろうとした瞬間。
「ブッ殺すぞ!!!」

耳を裂く叫び。そこにいたのは、あの声の主だった。
人かどうかすら疑わしい。顔は子供とも老婆ともつかず、目は血走って大きく見開かれ、鼻は潰れ、口は斜めに裂けていた。歪んだ仮面のようなその顔が、階段の下から自分を睨み上げている。
膝が崩れそうになるのを必死に堪えた。

気づけばそいつは手に何かを握っていた。刃物なのか、木片なのか、見極める余裕はなかった。ただ、異様な存在感だけが迫ってきた。
混乱と恐怖で、思考はもう働かない。
叫ぶしかなかった。
「誰だ……てめえは!」

自分の声が階段に響いた瞬間、そいつはまるで驚いたように目を見開き、身を翻して玄関へ駆け下りた。
玄関の戸を蹴破るように開けて、闇に消えていった。

あとには異臭だけが残った。
鼻をつく糞尿のような悪臭。玄関から階段まで、不規則な足跡が点々と残されていた。土ではなく、泥でもなく、腐敗した何かが靴裏にこびりついていたかのような痕跡だった。

震える手で警察に電話した。
制服の警官が数人やって来たが、結局、そいつの姿も足跡の正体もつかめなかった。
ただの不審者。そう片付けられた。

それ以来、あれは一度も現れていない。
だが、階段をのぼるたびに後ろから誰かの気配を感じる。
見えない足音が、背中にまとわりつく。
昼間でも、誰もいないはずの寮の廊下で、ふと振り返ってしまうことがある。

いま、その寮には後輩が住んでいる。
何も知らない顔で「先輩が住んでた部屋、けっこう快適っすよ」と笑っていた。
笑い返しながらも、胸の奥で冷たいものがうごめく。

あの夜、確かに自分のすぐ背後にいた。
もし叫ばなかったら。もし振り返るのが少しでも遅れていたら。
今ここにこうして生きていないのではないか。

そう思うたびに、背筋がぞわりと粟立つ。
人は本当に恐怖を知ると、夢の中でさえもその気配を忘れることができない。
だから、二十六年生きてきた中で一番恐ろしい体験だと、今でも断言できるのだ。

[出典:580 : 2004/02/28 23:01]

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