二十六年生きてきた中で、あの夜だけが時間の外に取り残されている。
会社に入って最初の二年間、私は古い一軒家の社員寮に住んでいた。昭和四十年代に建てられたらしく、廊下はわずかに傾き、階段は体重をかけるたびに軋んだ。湿気の匂いが壁紙の奥に染み込み、晴れた日でも室内はどこか薄暗い。同僚の袴田と二人暮らしだったが、管理人はいない。誰が出入りしても分からない、半分は下宿、半分は空き家のような場所だった。
夜勤が始まったのは入寮して半年後だ。初めての夜勤明け、泥のように重い体を引きずって布団に倒れ込んだ。眠りに落ちた直後、耳を裂くような声で目を覚ました。
「ブッ殺すぞ……殺してやる……ブッ殺すぞ!」
壁を殴りつける音が混じる。子供とも老婆ともつかない、年齢を失った声だった。最初は夢だと思った。だが音は止まらない。隣家からだと理解するまでに時間がかかった。
翌日、会社で話すと先輩は肩をすくめた。「隣の家な、ちょっとおかしいのがいる。気にすんな。そのうち慣れる」まるで天気の話のようだった。社内では既知のことらしい。
数か月もすると、私は本当に慣れた。奇声が上がれば耳を塞ぎ、眠りに戻る。恐怖は繰り返されると輪郭を失う。だが輪郭を失ったものは、別の形で近づいてくる。
ある夜勤明け、布団に入ろうとした瞬間だった。「ブッ殺すぞ!」今度は窓のすぐ外から聞こえた。距離が違う。思考が追いつかないまま、私は目を閉じた。自分に向けられているはずがないと、根拠のない前提にすがりついた。
その後、妙に静かな日が続いた。声は消えた。嵐の目のような静寂だった。
あの晩、会社から戻り、風呂を済ませて二階へ上がろうとした。濡れた髪のまま階段に足をかけたとき、視界の端に動きがあった。背後から、もう一人が同じ段を踏んでいる。
袴田かと思った。だがその日は夜勤だ。ここにいるはずがない。
振り向く前に、声が爆ぜた。
「ブッ殺すぞ!!!」
階段の下に立っていたのは、あの声だった。顔は定まらない。子供の輪郭に老人の皺が重なり、目だけが異様に大きい。口は笑っているのか裂けているのか分からない。手に何かを握っているが、形を認識できない。ただ、こちらを確実に見上げている。
私は動けなかった。叫ぶしかなかった。「誰だ」
その瞬間、そいつは目を見開いた。まるで私の声に驚いたように、くるりと背を向けて玄関へ走る。戸が激しく鳴り、闇に溶けた。
あとに残ったのは臭いだった。糞尿とも腐肉ともつかない臭気。玄関から階段まで、不規則な足跡が点々と続く。泥ではない。乾いても色が残る、何かの痕跡。
警察は来た。懐中電灯で照らし、写真を撮り、「不審者でしょう」と言った。足跡は翌朝には薄れていた。隣家を訪ねたが、応答はない。そこに誰が住んでいるのか、結局分からなかった。
それ以来、声は聞こえない。
だが階段を上るたび、背後の段が軋む気がする。自分の足音と、半拍ずれたもう一つの音。振り返れば誰もいない。それでも、あのとき私が叫んだから消えたのだという確信と、あの声に気づかれたのは私のほうだったのではないかという疑念が、いまだに離れない。
寮には今、後輩が住んでいる。「静かでいいですよ」と笑う顔を見ていると、あの夜、私が振り向かなければどうなっていたのかを考える。叫ばなければ、あれは驚かなかったのかもしれない。私が声をかけたことで、こちらを認識したのかもしれない。
あの顔は、本当に私を見ていたのか。
それとも、私の背後にいた何かを見ていたのか。
階段を上るとき、あなたは何段目で振り返るだろうか。
[記:580 : 2004/02/28 23:01]