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六月十二日 rw+4,783-0322

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お祓いに行く前に、これだけは書いておく。

書いておかないと、何があったのかだけではなく、私がどこからおかしくなったのかまで曖昧になる気がする。ここ数日、物の名前や順番はまだ思い出せるのに、匂いだけが先に立ちのぼってきて、ほかの記憶を押しのけるようになった。

始まりは二月の初めだった。

向かいの家を解体するという通知が、不動産屋の名義で入っていた。工事の日取りのほかに、「家財の中に掛け軸や書物など多数あります。必要な方はご覧ください」とあった。

向かいの家は、私がここへ越してきたときにはもう空き家だった。昔は大手企業の重役が住んでいたと聞いたが、庭木は伸び放題で、門扉もいつから開いていないのか分からないほど錆びていた。前を通るたび、誰も住んでいない家というより、まだ何かを置いたまま閉じただけの家に見えた。

本来なら他人の家に入るつもりはなかった。だが、その通知を読んでから数日、どうしても気になって仕方がなかった。見に行ったのは、解体の始まる前日だった。

玄関を上がった瞬間、強い香の匂いがした。

古い家の湿り気や埃の匂いではない。仏壇の前だけに漂うようなものでもなかった。家の中のどこか一か所からではなく、壁や畳や襖の裏まで染み込んだ匂いが、閉めきられた空気の中で濃くなっていた。

案内した不動産屋は平然としていた。靴のまま廊下を歩き、これは書斎だ、こちらは客間だと淡々と説明した。畳の縁に紙片が落ちたままになっていたり、棚の上に読みかけの本が伏せてあったりして、家の中だけ時間が止まっているようだった。片づけるというより、そのまま捨てる前に一度開けただけなのだと分かった。

書斎の机の上に、白い骨壺が置いてあった。

蓋まできちんとはまっていて、机の中央に据えられていた。不動産屋は私の視線に気づくと、「中身はありません」と言った。言い方が、何度も同じことを言わされてきた人のようだった。

私は返事をしなかった。空だと言われても、あれだけは家財道具の中のひとつに見えなかった。ほかの物は持ち主がいなくなったあとに残ったものだったが、あれだけはまだ置かれているものに見えた。

掛け軸は何幅もあった。書もあれば仏画もあった。床の間から外されて丸められたもの、箱に納められたもの、立てかけられたままのもの。書斎には書物も多く、廊下の先には和服の箪笥や文箱まであった。

箪笥の引き出しを少し開けたとき、匂いが急に強くなった。

香というより、乾いた布に長年移った匂いだった。だが古着屋の匂いとは違った。人が着なくなってからもなお、しまわれたまま残っていた時間そのものが匂いになったようで、私はすぐに引き出しを閉めた。閉めても遅かった。開ける前より、家の中の空気が一段濃くなった気がした。

寝室だけは鍵がかかっていた。

不動産屋は「ここは開けません」とだけ言った。理由は聞かなかった。聞くべきではないと思ったからではなく、聞かなくても、その部屋だけがこの家の中心だと分かってしまったからだ。玄関から書斎まで歩いたときより、閉ざされた寝室の前に立ったときのほうが、家の中に誰かがいる感じがはっきりした。

結局、私はいくつか持ち帰った。

掛け軸を二幅、小箱をひとつ、文机の脇に積まれていた薄い和綴じ本を数冊。どれも、売るつもりなら売れそうなものだった。不動産屋は「こういうの、近所の方に引き取ってもらえるなら助かります」と言った。

そのうち一幅に、「南無阿弥陀仏」と大きく書かれていた。

家に持ち込んでから広げて気づいた。見た瞬間、手に汗が出た。仏間に掛かっているならまだ分かるが、知らない家から持ち帰って、自分の部屋で広げるものではなかった。私はそれだけ娘に頼んで返しに行かせた。自分ではもう、あの門の中に入りたくなかった。

残りは、売れるものを先に売った。

手放せば終わると思った。物がなくなれば匂いも薄れると思った。だが、先に消えたのは物のほうだった。匂いだけが残った。

夜、居間でテレビを見ていても、洗面所に入っても、ふいにあの家の匂いがした。どこか一か所ではない。家の奥から来るのでもない。自分の背中の後ろにいるものが、少し近づいたときだけ匂うような出方をした。

解体工事が始まってから、それはさらに強くなった。

朝から重機の音がして、瓦が落ちる音や木が裂ける音が途切れなく続いた。私は二階の窓から、なるべく見ないようにしていたのに、午後、運び出される家具の列の中に、寝室のものらしいベッドが見えた。

家の中で唯一、最後まで見えなかった部屋のものだった。

その夜、外へ出ると、雨上がりの道路一帯にあの匂いが漂っていた。向かいの家の敷地だけではなかった。門の前でも塀際でもなく、私の家の玄関先まで同じように流れてきていた。半分壊れた家は真っ暗で、屋根の切れた部分だけが空に抜けていた。そこから何かが出たのか、あるいはもうとっくに出ていて、壊したせいで匂いだけ濃くなったのか、分からなかった。

家に戻っても、匂いは途切れなかった。

残していた品がいけないのだと思って、私は母に幾つか渡した。小箱と本二冊、売らずにいた掛け軸の箱も一緒に持たせた。母は古い物が嫌いではなかったし、私も早く家から減らしたかった。

そのとき、向かいの家のことを母に話した。

死んだ人の家というのは、家が空になっても終わらないのかもしれない、と。片づけられないまま残る物のほうが、残された人間より長く家にいるのかもしれない、と。母は黙って聞いていたが、最後に「持ってこなければよかったのに」とだけ言った。

数週間後、母は死んだ。

六月十二日だった。

病院のベッドの脇に、私が渡した小箱が置いてあった。中身は空のはずだった。母は何も入れていないと言っていたし、私も開けて確かめていた。それでも、看護師が荷物をまとめる横で見たとき、あれだけは軽そうに見えなかった。

それから六月十二日という日付だけが、ほかの日と違って見えるようになった。

娘の誕生日がその日だった。母が死んだのもその日だった。あとでお祓いを頼もうとして神職に相談したとき、向こうが挙げた日取りも六月十二日だった。私はその場で断った。理由は言わなかった。六月十二日に何かを集めたくなかった。

息子の誕生日は納骨の日と重なった。

あまりに重なるので、最初は日付のほうを気にしすぎているのだと思った。だが、そう考えるたびに、匂いが強くなった。頭の中で結びつけているだけなら、自分から離れた場所でまで匂うはずがなかった。

母に渡した品は、母が亡くなってから戻ってきた。

その中のひとつが、今も机の上にある。小箱ではない。掛け軸でもない。紙ばさみのような薄いものだ。母の荷物を整理したときに紛れていて、私のものではないのに、なぜか最初からここにあったように見える。開いていない。開く気にもなれない。机の上に置いてあるだけで、部屋の隅に立つ影の背丈が変わる気がする。

母が死んだ夜、私は自分の部屋の隅に人影を見た。

泣きはしなかった。ただ立っていた。暗いところに目が慣れてからも、輪郭だけは消えなかった。母だと思えばそう見えたし、向かいの家の寝室にいた誰かだと思えばそうも見えた。どちらかに決めようとすると、匂いが先にした。

それからは、匂いの出どころが分からなくなった。

遺品の箱に顔を近づけてもする。窓を閉めた部屋でもする。風呂上がりの自分の髪からもする。寝具にも移っている。洗っても落ちない。朝は薄く、夜になると濃くなる。ときどき、誰もいない廊下を人が通った直後のように、急にはっきりする。

向かいの家は、もうない。

更地になって、土だけが見えている。塀も木も、寝室も書斎も骨壺も、形のあるものは何も残っていない。それでも、なくなってからのほうが近くなった。

壊したのは家だけで、中にいたものではなかったのだと思う。

明日、お祓いに行く。

机の上の品も持っていくつもりで、さっきから紙袋を開けたままにしている。なのに、まだ触れていない。触れば、その手で車のドアを開け、神社の受付に出し、誰かに渡すことになる。その順番を考えるだけで、胸の奥が冷える。

この紙は、遺品とは別にしておくつもりだった。

だが書いているうちに、机の上からだけではなく、紙のほうからも匂いがしてきた。腕を離しても残る。指先にも移っている。

六月十二日が、また近づいている。

去年は母が死んだ。
その前は、向かいの家の寝室が壊された。
神職は、その日なら都合がいいと言った。

いま机の上には、持っていくはずの品と、書き終えたこの紙が並んでいる。

どちらを先に渡したのか、もう思い出せない。

[出典:195 :本当にあった怖い名無し:2015/06/08(月) 10:57:11.09 ID:5IIaiwLj0.net]

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