ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

短編 r+ 奇妙な話・不思議な話・怪異譚

六月十二日の香 r+4,385

更新日:

Sponsord Link

お祓いに行く前に、どうしても記しておきたいことがある。

いや、これを書き残さずにいると、何もかもが夢のように曖昧に溶けてしまいそうで、自分の存在ごと消えてしまうのではないかという、そんな不安に駆られている。

二月の初めだった。
向かいの家が取り壊されるという通知が、不動産屋の名義で投函されていた。
封を切ると、「解体に当たり、所蔵されている掛け軸や書物等、多数ありますのでご覧になりたい方はお越しください」と書かれていた。
他人の家の中に足を踏み入れるなど無縁だと思っていたのに、その文面には妙な誘いがあった。覗いてみたい――その気持ちを抑えられなかった。

向かいの家は、かつて大手企業の重役だった人物の邸宅だったという。
しかし、私がここに新居を構えてからは、ずっと空き家のまま、ひっそりと人の気配を絶っていた。
立派な庭木も剪定されることなく伸び放題で、どこか廃墟のような雰囲気さえ漂わせていた。
それでも、内部に踏み込んだ瞬間、息が詰まるほど濃厚なお香の匂いが漂い、死んだ家の中でなお人の気配を守ろうとしているように感じられた。

書斎らしき部屋の机の上に、骨壺が置かれていた。
思わず息を呑んだ私に、不動産屋は「中身はありません」とだけ言った。
だが、あれが空であるはずがない。誰かの気配が確かにそこに残っていた。
人が住まなくなっても、なお家に留まるものがあるのだと、その時に理解した。

邸宅は散乱したままの遺品で満ちていた。
高尚な書物、墨痕鮮やかな掛け軸、奥方のものであろう優雅な和服や手紙、写真。
どれ一つ整理されることなく、時の流れに封じ込められたままだった。
不動産屋は「掛け軸の公開というよりは、勿体ないので近所の方に持ち帰ってほしいのです」と言った。
その言葉に甘え、私はいくつかの品を手にした。

和服箪笥を開いたときのことだ。
そこから溢れ出た香の匂いが、家全体を覆い尽くした。
それは死臭ではなく、しかし明らかに生者のものでもない。
鼻腔に染みついたその匂いは、今も離れてくれない。

寝室だけは鍵がかかっていて、誰も足を踏み入れることは許されなかった。
その閉ざされた暗がりが、屋敷全体を支配しているように思えてならなかった。

持ち帰った掛け軸のひとつには「南無阿弥陀仏」と大書されていた。
冷や汗がにじんだ。
私はそれを娘に返させた。自分では二度とあの家に近づきたくなかったからだ。
他の遺品は売れるものがあったので、すぐに金に換えた。
ところが、それ以降、私は不眠や動悸に襲われ、精神は不安定に揺れ続けた。
心の奥底に、誰かが息をひそめている感覚が消えない。

解体工事が始まった日、窓越しに様子を見ていると、例の寝室のベッドが運び出される場面に遭遇した。
なぜか目を離せなかった。
その夜、外に出ると、雨上がりの空気に紛れて、あの家で嗅いだ香の匂いが一帯に漂っていた。
息を吸い込むたびに胸が締め付けられ、半壊した屋敷が暗闇の中で呻き声をあげているように思えた。
逃げるように自分の家に戻った。

それでも、売らずに残した品々から、相変わらずあの匂いが漂っていた。
嫌気が差して、母に幾つかを譲った。
そのとき、私は母に向かいの家のことを語った。
死んだら全てが終わり、大切な宝物も持ってはいけない。だからあんなふうに残されるのだ――と。

その数週間後、母が亡くなった。
病院のベッドで、一人きりで。
六月十二日。
偶然にもその日は母の通院日だったが、私は自分の健康診断と重なったため、付き添いを断ってしまった。
さらに娘の懇談も予定されていたが、これも断った。
「どうして六月十二日にばかり予定が入るんだろう」と母にぼやいたのが、最後の会話になった。

六月十二日という日付は、今では私にとって呪いのようだ。
母を失った日であり、娘の誕生日でもある。
そして、後にお祓いを頼んだ際、神職から告げられた日取りも六月十二日だった。
心臓が凍りついた。
あの日にまた何かが戻ってくるのではないかと思い、私は断った。

息子の誕生日は納骨の日と重なった。
笑うべき偶然なのか、それとも避けられぬ因果なのか。
ただひとつ確かなのは、母に渡した向かいの家の遺品が、母の枕元に最後まで置かれていたという事実だけだ。

私は今、手元に残る品々を見つめながら、書き残している。
これを書き終えたら、本当にお祓いに行くつもりだ。
だが、果たしてそれで済むのだろうか。
母が去ったあの夜、部屋の隅で誰かが立ち尽くしていた影を、私は今でも見てしまう。
あれが母であったのか、それとも向かいの家に取り残された誰かなのか。
それを確かめる勇気は、とうに失われてしまった。

書きながらも、香の匂いが濃くなってきている。
机の上の遺品から立ち上るのか、あるいは自分の体から滲み出ているのか。
どちらにせよ、私はもう逃げられないのかもしれない。

――六月十二日が、再び近づいている。

[出典:195 :本当にあった怖い名無し:2015/06/08(月) 10:57:11.09 ID:5IIaiwLj0.net]

Sponsored Link

Sponsored Link

-短編, r+, 奇妙な話・不思議な話・怪異譚

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2025 All Rights Reserved.