近所のスーパーFに通うのは、会社帰りのほんの気晴らしだった。
安くてそこそこ品揃えも良く、アイスでも摘んで帰ろうか……そんな程度の場所だったのに、ある日を境にどうにも居心地の悪い場所になってしまった。
最初に異変を感じたのは、店員の視線だ。商品棚を眺めていると、背後からねっとりとした目つきがまとわりつく。ちらりと振り返ると、若いアルバイト風の男が、あからさまに睨んでいるのに気がついた。目を逸らすかと思えばそのまま、敵意を隠そうともしない。感じの悪い店だと、最初はその程度にしか思っていなかった。
だが数日後、とうとう露骨な形で現れた。レジに並び、アイスと野菜を籠に入れただけだったのに、レジ係の女に突然怒鳴られたのだ。
「お客さまぁっ!さっきも来ましたよねぇっ!今度はなんですかっ!」
何を言っているのかわからず、口を半開きにしたまま固まってしまった。女は苛立ちを隠さず、バーコードを乱暴に読み取りながら睨みつけてくる。私が戸惑っていると、さらに追い打ちのように言葉を投げつけてきた。
「木のスプーンにしますかっ!プラスチックにしますかっ!」
わざと突き刺すような口調だった。私はできるだけ平静を装い「結構です」と答えた。ところが彼女は「結構です」を理解しないふりをしたのか、アイス二つに対して、木の匙とプラスチックの匙を二十枚ほど、ガサッと音を立てて投げ込んできた。その乱暴な仕草に周囲の視線が集まり、背中に汗がにじんだ。
「誰かと勘違いしてませんか?」と声を震わせずに問いかけた。だが返事はなく、ただ冷たい無視だけが返ってきた。シカト、というやつだ。あの時、私の心臓はどくどくと異様に早く打っていた。
その日以来、スーパーに行くのが憂鬱になった。だが、妙な出来事はそれだけで終わらなかった。
日曜日、手紙を出した帰りに住宅街を歩いていたときのことだ。前方から初老の夫婦が歩いてきた。何の変哲もない光景のはずなのに、二人の視線は妙に鋭く、まるで知り合いを見つけたような熱を帯びていた。すれ違いざま、男が唐突に低い声で言った。
「挨拶は?」
その言い方は叱責そのものだった。驚いて立ち止まり、まじまじと顔を見たが、どう考えても見覚えがない。
「誰あんた」と、つい口に出してしまった。無礼な言い方だったかもしれないが、それ以上に向こうの態度が失礼すぎたのだ。男は顔を歪めて、今にも「なんだとぉ!」と怒鳴り出しそうだった。しかし、隣の妻らしき女が蒼白になり、男の腕を引っ張って慌てて制した。
「あなたっ、違うっ、違う人よっ」
そう叫ぶと、そのまま逃げるように去っていった。私は立ち尽くしたまま、自分の手が冷たく汗ばんでいるのに気がついた。
さらに別の日、今度はまったく別のスーパーで、若い主婦らしき女性と通路で鉢合わせになった。ぶつかる前に避ければいいものを、彼女の方が先に反応した。小さな悲鳴をあげ、腰を折り曲げて九十度に頭を下げながら「すいませんすいませんすいません」と繰り返したのだ。まるで私の顔を見た瞬間に、恐怖か罪悪感のようなものを呼び起こされたかのようだった。
こうなると、もはや偶然の範疇を超えていた。恐れられているのか、軽蔑されているのか、嫌われているのか。人の反応はばらばらだ。共通しているのは、皆が私を「誰か別の人間」と思い込んでいるということだ。
頭を抱えたくなった。私は何かに似ているのだろうか。双子のように瓜二つの人物が、この街のどこかで同じ時間に存在しているのか。ふと、カフカの『変身』ではなく、ポーの小説に出てくるそっくりさんを思い出した。最後には、自分の分身に刺し殺されるあの話だ。自嘲気味に「外で暴れている私のそっくりさんよ、少しは自重してくれ」と心の中で毒づいた。
だが毒づきながらも、胸の奥底には不安が巣食い始めていた。これは単なる笑い話で済むのか? それとも、自分の存在そのものを侵食する何かが始まっているのか?
会社帰り、ふとした時に鏡を見ると、自分の顔が以前よりもよそよそしく見えることがあった。まるで自分ではない誰かの顔が、ほんの一瞬だけ鏡の中からこちらを覗いているように。夜、寝る前に洗面所の電気を消すのが妙に怖くなった。暗がりの中で、自分とそっくりの何かが残り続けている気がしたからだ。
極めつけは、再びスーパーFに立ち寄った日のことだ。私はその日、会社の打ち合わせのために普段と違い、少し洒落た服装をしていた。髪型も変え、化粧も濃いめにしていた。結果、まるで別人のような外見だった。驚くことに、その時だけは誰からも睨まれず、店員も普通に接客してくれた。あの息苦しい空気は、嘘のように消えていた。
その瞬間、背筋に寒気が走った。やはり、この街には私にそっくりな存在がいて、しかも私と違う生活をしているのだろう。常連クレーマーなのか、万引き常習なのか、とにかく誰かを苛立たせ、恐れさせる行為を繰り返している。だから、私が素のままの姿で街を歩けば、知らない誰かが怒りをぶつけてくる。
打ち合わせ用に化けた私だけが、ようやく「私自身」になれる。皮肉なことに、偽りの姿の方が安全なのだ。
それからというもの、スーパーFには近づかなくなった。三十分歩いて別の店を利用している。だが、今でも時折視線を感じる。信号待ちで背後から、電車の車内で隣に座る人から。気のせいだと思いたいのに、心臓が勝手に高鳴り、手のひらが湿っていく。目を合わせてしまえば、また誰かに「挨拶は?」と怒鳴られるかもしれない。
――私はいったい、どちらなのだろう。怒鳴られ、避けられ、恐れられる「そっくりさん」の方なのか。それとも、こうして震えながら物語を語っている方こそが、影の存在なのか。
時々、ふとした瞬間に考えてしまう。鏡に映る姿がほんの少しずれて見えるとき、本当にここにいるのは「私」なのか、と。
[出典:662 :本当にあった怖い名無し:2008/07/12(土) 14:25:07 ID:M5BTyOID0]