これは、俺が大学生になってから知り合った友人の話だ。
俺は仮に田口としよう。そいつの名前は佐藤。あくまで仮名だ。
佐藤は三年半ほど前、海の近くのマンションに引っ越した。波打ち際まで歩けば五分もかからない、高台の古い建物。鉄製の手すりは海風で錆び、外壁の塗装はところどころ剥げ落ちていたが、部屋の窓からは海が一望できた。
佐藤は絵を描くのが好きで、とくに海を描くことに執着していた。海を前にすると、目つきが変わる。笑っていても、どこか視線の奥が静かに濁っているようなところがあった。だからこそ、多少無理をしてでも、海の見える部屋を借りたのだろう。
越してすぐの頃、佐藤から「暇ならいつでも来い」と誘われた。軽い気持ちで行ったその部屋は、正直、息を呑むほどだった。南東向きの大きな窓から朝の光がなだれ込み、波の音が程よく届く。ベランダに出れば、潮の匂いと遠くの汽笛が混ざって、吸い込む空気までもが海の色を帯びているように感じられた。
部屋にはいくつものカンバスが立てかけられていた。まだ引っ越して数日だというのに、既に何枚も描き上げている。
「この部屋からの海を見てると、描きたくて仕方がなくなるんだ」
佐藤はそう言って、唇の端をわずかに上げた。その表情は、嬉しさと、少しの焦燥が混ざっているように見えた。
それから俺は何度も佐藤の部屋を訪れた。訪ねるたびに、海の絵は増えていた。色使いは徐々に激しさを増し、波のうねりや水平線の揺らぎが、まるで呼吸をしているように生々しかった。だが、同時に佐藤の顔色は日に日にやつれ、目の下の隈は深くなっていった。
俺がアルバイト先をクビになり、就職活動に追われ始めた頃、佐藤の部屋へ行く頻度は減った。一ヶ月ほど経ったある日、久しぶりに訪れると、呼び鈴に反応はなかった。試しにドアノブを回すと、鍵は開いている。
中は暗かった。
「佐藤……?」
声をかけると、奥の闇からぼんやりと佐藤が現れた。
「……ああ、お前か。入れよ」
部屋のほとんどがカンバスで埋まっていた。四方を囲むのは、すべて海の絵。だが灯りを点けようとしてもスイッチは虚しく空を切るだけだった。
「電気は止められた」
「止められたって……金は?」
「仕事、辞めた」
佐藤は窓際に立ち、外を見ていた。開け放たれた窓から潮風が吹き込み、絵の表面をなでていく。
「部屋から出たくない。ずっと海を見ていたい。描き続けたいんだ」
その声は、何かに吸い込まれるようにかすれていた。
それから四ヶ月、俺は忙しさと、あの夜の佐藤の姿への恐怖から、部屋を訪れなかった。だがある日曜、ふと胸騒ぎがして足を向けた。
呼び鈴を押す。反応なし。ノックを繰り返すと、扉の向こうからしゃがれた声が聞こえた。
「……田口……」
「お前か!開けろ!」
「……もう、だめだ……だめなんだよ……」
「何がだめなんだ!」
次の瞬間、耳を裂くような悲鳴が響いた。断末魔としか思えない叫び。
「助けて……殺され……海に……」
その言葉を最後に声は途絶えた。
隣人と大家を呼び、鍵を開けた。だが部屋に佐藤の姿はなかった。
代わりに、一枚の海の絵が床に立てかけられていた。
海は真紅に染まっていた。乾ききらぬ赤。それは絵の具ではなかった。血の匂いが、潮の匂いと混ざり、喉を焼くようにまとわりついた。
警察が来て、その絵は持ち去られた。
それから五ヶ月後、警察から電話があった。
「佐藤さんの遺体が海で見つかりました」
あの日、扉一枚隔てていたはずの佐藤は、なぜ海にいたのか。理由は誰にもわからなかった。
俺には、ひとつだけ思い当たることがある。佐藤は確かに言った。
――海に殺される。
あの部屋の窓から見える海が、彼を呑み込んだのだと。俺は今でもそう信じている。
(了)
[出典:175 名前:海 投稿日:2003/06/27 20:20]