無音の試聴室、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

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無音の試聴室|第四章 三つの返事 iwa+

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三月九日の午前、沖野さんから届いた一覧表には、音の種類を書く欄がなかった。

保管箱の番号、媒体、表面に記された題名、データの長さ。その四つだけが、細い罫線で区切られていた。二月に資料のデジタル化を請け負った業者は、読み取れない文字に疑問符を添え、読み取れた文字はそのまま移したという。問題の行には「第二試聴室 残響・無音試験」、長さの欄には「〇分四三秒」とあった。題名は箱の蓋ではなく、カセットケースの内側の紙から採ったものだった。昨日見た箱の「音響試験 八九・二・一八」と、鉛筆の「無音四三」は、備考欄へ移されていた。

細い罫線で四列に分けた媒体一覧と、内側に紙の入った開いたカセットケース、別の保管箱。
挿絵:AI生成による架空の場面

私は昨日もらった上映用映像の編集表を開き、同じ箱番号を検索した。会館の開館当時を紹介する部分で、試聴室の壁と椅子を撮った古い映像に、その音声素材が使われていた。画面には「一九八九年の設備試験」という見出しがある。音のない作業風景をつなぐ箇所、と制作側が説明した部分だった。

 一覧表の題名は音を聞いて付けたものではない。そこまでを沖野さんへの返事に書いてから、私は指を止めた。添付された音声は、まだ開いていない。私は返信を下書きへ戻し、会館へ行く時刻を沖野さんに送った。

 昼過ぎに会館へ行くと、宮坂さんは調整室ではなく事務室の打合せ机に機材を置いていた。小さな再生用スピーカー一組と、会館の機器につながっていないノートパソコンだった。古い部屋をもう一度使う話は、誰もしなかった。

「先に、どの音を聞くかだけ合わせましょう」

 宮坂さんは、二月に作られた保存用の音声ファイルと、上映用に書き出された完成映像を並べた。保存用のほうには業者から受け取った作業記録も添えてある。ここで音量を上げたり処理を加えたりしたものを作るなら、別の名前にして残す。それを確認してから、彼は再生を押した。

 薄い雑音が続いた。音量を普段の確認より上げても、人の声と分かるものは出てこなかった。宮坂さんはすぐに音量を戻した。聞こえるはずだと思って何度も繰り返すのはやめ、最後まで一度だけ聞いた。机の上の時計の秒針のほうが、よほどはっきり聞こえた。

 そこで宮坂さんが、同じ保管箱に入っていた作業票を出した。〈応答音声・伊原〉の下に三つの文が並んでいる。〈います。/よく聞こえます。/もう一度お願いします。〉それぞれの前には丸印があり、最下段に〈試験用複写、四三秒〉と記されていた。質問する側の言葉は書かれていなかった。

「返事だけを録ったんですか」

「この紙からは、そう読めます。でも、今のファイルにはありません」

 上映用映像を確かめても同じだった。画面に椅子が映っても、カメラが壁だけを向いても、人の声は聞こえない。「います」の最初の母音を、私は雑音の中で待っていた。何度も読み返した三行が、声より先に頭へ入っている。再生位置の下に書きかけた印を消し、紙を伏せた。

 元からこの素材はほぼ音のないものだった、と制作側の確認欄にもある。歴史映像の編集時点で声を抜いたという説明は、今のところ成り立たなかった。紙にある声が、同じ箱の音声にはない。二つが同じ録音の記録なのかを確かめる作業が、先に必要だった。

 元のカセットにはもっと長い記録があるのか、と沖野さんが訊いた。宮坂さんは業者の作業記録を指した。テープの当該面は頭から終わりまで取り込まれている。ケース内の紙で指定されていた部分を四十三秒として切り出したファイルと、面全体を残したファイルが、別々に納品されていた。面全体のほうもその場で確かめたが、指定区間の外から三つの返事は見つからなかった。四十三秒の切り出しだけで声が失われたわけではなさそうだった。

 業者との電話はスピーカーにせず、沖野さんが受けて、私たちの質問を伝えた。あとから読める回答もほしいと頼んだ。十分ほどで来た短いメールには、音の小さい箇所を取り除く処理はしていないこと、ラベルの文言は内容の判定ではないこと、元媒体を返却済みであることが書かれていた。録音された時期の配線や、別に納品した映像との同期は保証できない、ともあった。

「じゃあ、三月四日のほうは。あの日の録画だけ音が落ちたのは、機械のせいってことはないですか」

 沖野さんは訊きながら、録画ファイルの名前を見ていた。

「それはあります。ありますが、今ここで原因は決められません」

 宮坂さんは、回答を急いでいる人に説明するように、机の手前へ椅子を寄せた。録画側の入力、途中の設定、ファイルを書き出したときの状態。音声だけを落とす失敗は一つではない。人の話し声や物音が同じ区間で残らなかったことだけなら、調べる順番がある。まずは元の記録を保存して、接続と設定を確かめる必要があった。

「声を消す機能が、返事だけを拾ったんでしょうか」

「その言い方だと逆です。記録には返事も残っていない。僕が返事を聞いたと言っているんです」

 沖野さんはすぐに「ああ」と言って、自分のメモを直した。

 三月四日の映像を、今度は音を出さずに見た。客席の八人が顔を上げる。揃っているように見えた動きにも、前後があった。最初の一人が廊下側を見て、隣がそちらを確かめ、その向こうの肩が動く。私は最初の一人と最後の一人の位置を、別々の行へ写した。

 あとから合流した井草さんに私の書き取りを渡すと、彼女は三つの文の上に「一九八九年の作業票」と書いた。別の紙を出して「三月四日に各自が聞いたもの」と見出しを付けた。それから宮坂さんの顔を見て、指で自分の口元を示した。宮坂さんは立ったまま説明を続けるのをやめ、彼女の正面に座った。

「僕のは、女の人の声で『います』。廊下で、連絡用のスピーカーのある辺りからでした」

 井草さんは聞き取れた部分を復唱し、最後の箇所を紙で確認した。私は三月六日のメールを開き、「こちらでは『まだいます』でした」と伝えた。宮坂さんは画面を読み、最初にそう書いたなら、それを残してほしいと言った。今日省いた「まだ」が、記憶から抜けたのか、説明のために縮めたのかは本人にも分からなかった。沖野さんも、先日は「出ていいか」と話したが、いま同じ言葉を選ぶ自信はないと答えた。私は前の回答を消さず、その下に今日の発言を足した。作業票の三つの句を読んだ今、言い直してもらえば、過去の曖昧な音がその三つのどれかに寄ってしまいそうだった。

 井草さんは二枚の紙を重ねず、机の左右に置いた。

「紙の言葉と同じでも、その声の人がそこにいたとは、まだ書けませんよね」

「はい」

「じゃあ、映像の字幕も、そこまでで」

 帰る前、沖野さんが古い広報紙のコピーを持ってきた。開館に合わせた市民ボランティアの紹介で、朗読担当者の写真の下に「伊原千鶴さん」とあった。三十年以上前の白黒写真の女性は、机に置いた原稿を片手で押さえている。沖野さんは、その人と電話がつながったと言った。

「今も市内にお住まいです。昔の録音のことで伺いたいと伝えたら、声を流す前に、どの録音か教えてほしいって」

 私は机に伏せてあった三行の紙を起こした。伊原さんは、この三つを今の声で読み返すのだろうか。音のないファイルを訪問先で流すことを考えると、持参する資料を選ぶ手が止まった。

 三月十一日の午後で約束が取れた。私は持参する資料の一番上に、まだ一行しかない確認票を入れた。

 〈この記録について、公開してよい範囲を先に伺います。〉

 声の主に会いに行く準備として、私はその一行を印刷した。四十三秒のファイル名は、紙のいちばん下に、小さく残した。

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。登場する人物、団体、場所、出来事、取材、録音、映像および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

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