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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

水の底を歩く煙 n+

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今でもあの夜の匂いを思い出すと、喉の奥がざらつく。

真夏の夜、湿った土とアスファルトの境目みたいな臭気。あれを吸い込むと、胸の中に古い校舎のような黴の味が広がるのだ。

その夜、家を出たのは午前一時を少し回っていた。
窓から差し込む月の光が畳に筋をつくっていて、部屋の隅に立てかけた自転車の影が歪んで揺れていた。両親は隣の部屋で寝ている。テレビのコンセントを抜くときのように、そっと息を止めて玄関の戸を開けた。
外気は風呂上がりのようにぬるく、耳の中まで湿っていた。

行き先は近所の中学校。自宅から五分ほどの距離だ。
理由を言うのも気恥ずかしいが、興味本位というやつだった。中学のプールの女子更衣室を、この目で見てみたかった。
誰もいない深夜の学校に忍び込む──その背徳感に、妙な昂ぶりを覚えていた。

田舎道の街灯はところどころで切れており、舗装のひび割れにカエルが潰れている。
ペダルを踏むたびに、汗が背中を伝ってズボンのゴムに染みた。
校門の脇から自転車を押し、人気のないグラウンドを抜ける。虫の声がいっせいに鳴き止むと、自分の呼吸音だけがやけに大きく響いた。

プールは校舎の裏手にあり、コンクリートの塀の内側にぽつんとある。
更衣室のドアノブを回したが、当然のように鍵は掛かっていた。
だがその横の曇りガラスの窓──人ひとりがやっと通れる幅のそれを押してみると、引っかかる音とともに簡単に開いた。どうやら建て付けが悪いらしい。

中に滑り込んだ瞬間、湿り切った空気が肌にまとわりついた。
カビ、古い木、埃、そしてどこか甘ったるいプール用具の匂い。
裸電球の下には、扉の外れたロッカーが並び、床のスノコは黒ずんで柔らかくなっていた。
指先でスノコを押すと、水が滲むようにじっとり沈む。
息を殺して耳を澄ませても、外の虫の声さえ聞こえなかった。

足音を立てないように一通り見回したが、特に何かあるわけでもない。
木製のベンチの下に古いタオルが丸まっていた。拾い上げると、乾ききらぬ汗の臭いが残っていた。
それを元の位置に戻し、何事もなく外へ出た。

……そのはずだった。

外に出ると、風の流れが変わっていた。
校庭の空気がさっきより重い。どこからか、焦げたような匂いがした。
鼻の奥がツンとする、湿った金属の臭気。
嫌な予感がして、急いで自転車にまたがった。

坂を下って家に帰ろうとしたそのとき、遠くで赤い点滅が揺れていた。

パトカーのランプだと気づき、反射的に逆方向へハンドルを切った。
夜の田舎道は、どこへ行っても同じような闇だ。
舗装の割れ目を照らす月明かりが、薄い銀紙のように光っている。

反対の道は、街灯もまばらで、少しずつ坂を登っていく。
息が上がると、耳の中で血の音が波打った。
途中、小さな公園の前で足を止め、水筒の水を一口飲む。
ブランコの鎖が風に鳴って、金属が擦れるような音を立てていた。

そのとき、ふと公園の奥で白いものが揺れているのに気づいた。
最初は街灯の光が霧に反射しているのかと思った。
けれど、それは形を保ちながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。
まるで、誰かが煙を抱えて歩いているように。

目を凝らすと、それは人の形に似ていた。
頭と肩のあたりが濃く、足もない。
けれど確かに地面を滑るように動いていた。
風もないのに、髪のような細い線が煙の中で揺れていた。

その瞬間、体の芯が冷えた。
逃げなければ、と思った。
ペダルを踏む足に力を込めると、タイヤが砂を噛んで滑った。
背後で「じゅう」と何かが焼けるような音がした気がした。

坂を一気に下る。
風が頬を打つたびに、背中の汗が冷たく乾いていく。
振り返る勇気はなかった。
ただ、煙が追ってくる気配だけは、確かに背中に張りついていた。

家の角を曲がったところで、足元の影がすっと薄れた。
追ってきていた白いものの気配が、ふっと途切れる。
玄関に自転車を立てかける手が震えていた。
心臓の音が、耳の奥で金槌のように響いた。

部屋に戻っても、しばらくは汗が止まらなかった。

窓を閉め、電気をつけたまま布団に潜り込んだ。
耳を塞いでも、あの「じゅう」という音が頭の奥で繰り返される。
夢と現実の境目で、誰かが息を吐く気配を感じた。

朝になっても、匂いだけが残っていた。
焦げたような、濡れた灰のような匂い。
部屋の空気に溶けて、しばらく消えなかった。
自転車のハンドルにも、うっすらと白い粉がついていた。

数日後、新聞の地域欄の片隅に、小さな記事を見つけた。
「市立中学校付近の公園トイレ火災 男を逮捕」
見出しの下に、犯人が放火時に「消えろ」「来るな」と叫んでいたと書かれていた。
トイレは全焼し、夜中に白い煙が一帯に広がったらしい。
あの公園だと気づいたのは、記事を二度読んでからだった。

それから数年たって、大学進学で町を離れた。
あの夜のことは、友人にも家族にも話していない。
夏になると、あの湿った風の匂いだけが鼻の奥に蘇る。
煙が何だったのか──今となっては確かめようもない。

ただ一度だけ、帰省した夏の夜。
物置の奥から自転車を引っぱり出したとき、
ペダルの軸が、まだ白く粉を噴いていた。
磨いても取れず、指についた粉は少し温かかった。

それを見た瞬間、思った。
あの夜、追ってきたのは「煙」なんかじゃなかったのかもしれない。
私の帰り道を、何かがずっと確かめていたのかもしれない。

今も時々、自転車を漕ぐ夢を見る。
前の道がゆっくりと坂を登り、遠くに白いものが揺れている。
目が覚めると、枕元の空気が湿っている。
そして、あの匂いがする。
まるで、再びどこかへ出かける合図のように。

[出典:43 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.5][新芽] (ワッチョイW 7f30-unvM):2025/02/08(土) 08:24:48.50ID:/lIG58V60]

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