今でもあの夜の夢を思い出すと、体の芯がざらつくように冷えていく。
普段、夢の記憶なんて目覚めれば霧散するはずなのに、あの光景だけは未だに色濃く焼き付いている。むしろ年月とともに少しずつ形を変え、どこか現実に溶け出している気さえするのだ。
私が子供の頃、家族と居間でテレビを眺めていた。番組はいつも通りのバラエティだったはずなのに、不意に画面が乱れ、無理やり割り込むようにニュース映像に切り替わった。アナウンサーが無表情で「この地域に殺人鬼が徘徊している。外出に注意してください」とだけ告げる。背筋を撫でるような声色で、日常の中に異物を滑り込ませてきた。
両親は、怖いねえと軽口を叩くだけで深刻さを感じていない。笑い混じりの反応が、逆に空気をねじれさせた。緩んだ空間に針が刺さるように、母が窓を指差して悲鳴を上げた。
外を見ると、隣家の暗い窓辺に影が張り付いている。顔がガラスに押し付けられ、血の気のない笑みを浮かべていた。その髪は小汚く乱れ、肌は土色に沈んでいる。こちらを覗き込んでいるのではなく、まずは隣、その次の家、そのまた隣……と順に「窓」を覗いていくのだ。どの家の住人も気付いていない。覗かれるのをただ許してしまっている。
そして、その順番がついに我が家へやって来た。
ガラス越しに目が合った瞬間、肺が凍るように動かなくなった。異様に長い口の端が吊り上がり、歯をむき出した笑みが貼り付く。その顔は妙に見覚えがあり、どこかで見た芸能人の、健康や美からすべてを剥ぎ取ったような崩れ方をしていた。目の奥には人の感情などなく、ただ「覗くこと」そのものを愉しんでいる輝きだけがあった。
やがてその影はふいと立ち去った。安堵するよりも、体の震えを抑え込むのに精一杯だった。ところが次の瞬間、母が口を開いた。「煙草が切れたから、自販機で買ってきて」
私はそこで目を覚ました。
……ただの夢だと自分に言い聞かせた。けれど奇妙なのは、普段夢を忘れてしまう私が、この場面だけを鮮明に何度も思い返してしまうことだった。
その数日後、霊感の強い友人に話す機会があった。写真の偽物を見破れるほどの直感を持つ奴で、軽い気持ちで相談したはずなのに、その反応は重苦しかった。
「その女はね、どこかで罪を犯して自ら死んだ無縁仏だよ。幽霊として彷徨った後に変質して、もう人じゃない。魔物に近い存在になってるんだ」
私は息を呑んだ。冗談めかして笑ってくれると思っていたのに、その目は一点の迷いもなく私を射抜いている。
「お前が夢で見た『隣の家』っていうのは、本当の隣じゃなく、別の人間の夢の空間だ。女は夢と夢を渡り歩いて、覗いていたんだよ。波長が合う人間を探すために」
波長が合えば、その人間は夢の「外」に連れ出され、憑かれてしまうのだという。そしてあの瞬間、女が私に笑みを見せたのは――合致した証拠。
「じゃあ、なぜ俺は助かったんだ」
「目が覚めたからさ。出る前に覚醒したから、女は諦めて別の夢へ移ったんだ」
安堵の息が自然と漏れた。けれど同時に、胸に引っかかっていた疑問を口にしてしまった。
「じゃあ、母さんが俺を外に出そうとしたのは……」
「それは母親じゃない。あれは女そのものだよ。夢の中で少しだけ形を変えて、家の中から外へ誘い出そうとしてたんだ」
ぞっとして血の気が引いた。あの声も、仕草も、母ではなかったのか。
最後に私は愚かにも尋ねてしまった。「もしあの時、取り憑かれていたらどうなっていた?」
友人は一拍置いて、目を逸らしながら口を閉ざした。
やがて絞り出すように言ったのは「……それは聞かないほうがいい」という一言だけだった。
私はそれ以上追及できなかった。けれどそれ以来、夢の中で窓が出てくるたびに背筋が凍る。覗いてくるのはまだ彼女なのか、それとも別の誰かなのか。
眠ること自体が、じわじわと恐怖に変わっていった。
なぜなら夢の窓は、いつでもこちらと向こうを繋いでしまう。私はただ「目を覚ます」ことで偶然逃れただけに過ぎないのだ。次は果たして、目覚めることができるだろうか。
[出典:636 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.2][芽警]:2024/12/22(日) 13:21:02.31ID:5GnoughF0]