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中編 未解決事件

【未解決事件】BOACスチュワーデス殺人事件【ゆっくり朗読】

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イギリスの航空会社、BOAC(現ブリティッシュ・エアウェイズ)の日本人スチュワーデスの殺害に関与したとされる未解決の殺人事件が、1959年(昭和34年)に日本で起きた。

1939年から1974年までイギリスに存在した国営航空会社で、英国欧州航空と合併、現在のブリティッシュ・エアウェイズとなった。

被害者の遺体は東京都杉並区で発見されたが、犯人の特定と逮捕には至らず、1974年(昭和49年)3月10日に公訴時効が成立、未解決事件となった。

概要

この事件の主な舞台は杉並区の善福寺川(大宮八幡宮近くの宮下橋)下流で、被害者となったスチュワーデス:武川知子さん(当時27歳)の遺体が1959年3月10日の午前7時40分に発見された。

最初は自殺と見られたが、慶應義塾大学病院による司法解剖の結果、扼殺の可能性が高まり、警察は殺人事件として捜査を開始。

被害者の交友関係から、カソリック杉並ドンボスコ修道院の会計主任であるベルギー人のルイス神父(Louis Charles Vermeersch、当時38歳)が捜査の中心人物となった。

しかし、神父の身柄が重要な証拠となる可能性があるにもかかわらず、彼が外国人であり神父であることから、警察はマスコミに漏れることを恐れ、秘密裏に捜査を進めたが、1959年4月12日にNHKのドキュメンタリー番組「日本の素顔」で神父の写真が公開され、これがきっかけで神父の存在がマスコミに知られることとなった。

捜査の進行中、神父はバチカン大使館一等書記官と弁護人の同席の下、警察による事情聴取を受けたが、逮捕には至らず、神父は病気療養を理由に、正式な手続きを経てベルギーに帰国した。

この事件には、英国海外航空の他のスチュワーデスが密輸に関与しているとの噂もあり、国際的・組織的な密輸ルートに関わる陰謀ではないかという推測も浮上した。しかし、結局この事件は解決に至らず、1974年(昭和49年)3月10日に公訴時効を迎えた。

この事件は数多くの著名作家によって取り上げられ、さまざまな意見や視点が提示された。さらに、事件を元にした映画やテレビドラマも制作され、未解決事件としての興味を持続させている。

事件の詳細

1959年3月10日午前7時40分ごろ、東京都杉並区大宮町の善福寺川で女性の水死体が発見された。女性は世田谷区松原3丁目に住むA子さん。3月8日から下宿を出たまま、行方不明だった。

検視の結果、体に乱暴された跡がなかったため、当初、自殺と認定された。しかし、親族から「自殺に思いあたるふしがない」という申し出があり、あらためて慶応大学病院で遺体は解剖され、溺死ではなく、頸部圧迫による窒息死か、頸部に圧力が加わったためのショック死の疑いが濃厚になった。

さらに、警視庁の調べで、被害者の膣内付着物などから、2つの血液型の精子が発見されたことから、3月8日から遺体発見までの約2日間で、被害者は少なくとも異なった男と肉体関係があることがわかり、事件は好奇の目を集めることになった。

短大を卒業後、神戸で看護婦として働いていたが、患者2人と交際し、三角関係を解消すべく上京。看護婦として働き始めた。だが、BOAC日本支社長だった叔父からスチュワーデス試験に応募することを勧められ、知り合ったばかりの神父に英語をサポートしてもらったことから、2人は急接近した。

数百倍の競争率を突破し、合格し、ロンドンへ研修に行く直前に、2人は結ばれたようだ。

それは相談のためだった
1948年、ルイス神父は東京にやってきて、そこで叙階された。事件当時、彼は宗教書の出版社であるドン・ボスコ・ホームで経理部長として働いていた。この出版社は、ドン・ボスコのサレジオ会の傘下にあった。事務所は杉並のカトリック下井草教会にあった。

武川さんが持っていた手帳に彼の名前が書かれていたことから、警察は彼を注目するようになった。また、武川さんの遺体が発見される3日前の3月7日、武川さんが住んでいた寮に出版社から宅配便が届いていたことも判明した。
警察は当時、小包の中に入っていたルイス神父からの手紙は、武川さんに会うよう求めていると考えていたと、東京新聞の記事を引用してUPIは報じている。

3月8日(日)、カトリック信者である武川さんはミサに参加した。その後、昼食のために教会近くの叔父の邸宅を訪れました。(武川さんの叔父は、BOACの営業部門に勤めていた。)
午後3時頃、彼女は新宿区牛込の「誕生日会」に向けて出発した。それ以降、彼女は姿を見せなかった。

1958年12月、300人の応募者の中から選ばれた8人の日本人スチュワーデスの一人である。

UPIは、彼女がその日のうちに寮を出るときに、手紙を持ち出したことが知られていると報じた。その手紙は、2日後の遺体発見時にはなかった。

マスコミは、ルイス神父が4月に行方不明になった、あるいは国外に逃亡したのではという憶測を流したが、そうではなかった。
実際、彼は事情聴取に応じた。バチカンから来た秘書と弁護士を伴って、戦後数々の名探偵を指揮した平塚八兵衛の尋問を受けた。尋問は、5月11日から13日までと、20日から22日までの2回に分けて行われた。

その中で、ルイス神父は、武川さんを渋谷区原宿のホテルに連れて行ったことを認めた。"相談のためだった "と交際を否定する発言をしたという。"それだけです "と。

セッションを重ねるうちに、フェルメール・シュ神父は貧血に悩まされるようになった。貧血を起こすようになり、一時は病院に入院したこともあった。

東京↔香港間の初飛行
兵庫県芦屋市出身の武川さんは、両親の勧めでカトリックに入信した。高校卒業後、上京し、宣教師が経営していた聖母看護短期大学に入学した。
その後、芦屋に戻り、看護師として働く。しかし、結婚を考えていたが、両親の賛成が得られず、都内に戻り、中野区の聖オディリア保育園に勤める。

BOAC:ジェット機で東京に向かう

2月27日、研修を終えてロンドンから帰国。3月13日、東京-香港間で初フライトをする予定であった。
フェルメシュ神父は否定していたが、警察は、彼女がスチュワーデスに選ばれる前から二人が交際していたことを認めている。

目撃者の証言
警察は、外国人神父を殺人罪で告発すれば、国際的な問題に発展することを理解していた。しかし、ルイス神父以外に標的はないように思われた。にもかかわらず、ルイス神父の証拠は状況証拠に過ぎない。捜査中、何度も唾液の採取を試みたが、効果はなかった。目撃者の証言は、ただただ興味をそそるものばかりであった。

原宿竹下通りのホテルの女性従業員は、武川さんが失踪する3日前の3月5日に、当時は珍しかった外国人が入ってくるのを見たというのだ。ルイス神父の写真を見せると、その神父が自分の見た外国人であることを確認した。

神父は白いルノーのセダンに乗っていた。武川さんの遺体が発見された場所の近くに住む女性は、発見当日の午前5時頃、近くで白いセダンを見たことを証言している。警察から車のカタログを見せられ、神父が乗っていた車と同じものであることを確認した。(事件後、セダンのタイヤを交換したのだろうと推測されている)。

それから、キノコもあった。検視の結果、武川さんは死の直前に中華料理を食べていたことが判明した。胃の中から発見された食品の中には、松茸とわかるような切り方をされたものがあった。そんな商品がJR荻窪駅前の売店で売られていた。従業員は、その缶詰をフェルメシュ神父に似た男に売ったと話していた。

彼の人格も疑われた。平塚刑事は、神父が聖オディリア保育園で女性職員と抱き合っているところを目撃されていることを知った。また、日本のメディアの報道によると、彼は彼女たちの下半身を撫でるなどのセクシャルハラスメントを行ったと告発されている。

しかし、最も重要なことは、神父には居場所のアリバイがあったということだ。
しかし、神父と一緒にいたと主張する人物はすべて教会内の人間であったため、警察はその信憑性を認めなかった。

馴れ馴れしい彼女
フェルメール神父が捜査対象であることを知ったのは、4月12日に放送されたNHKの番組「覆面検事」で、現在の横浜地方入国管理局の壁に貼られた肖像写真が紹介されたからだ。その後、平塚刑事の知名度も手伝って、他の報道機関もこの記事を取り上げるようになった。

そして、国民は神父に反発するようになった。ある外国の新聞は、「宣教師が武川さんと親しくなりすぎて殺害したと、センセーショナルな日本の新聞もある」と報じた。

神父は、この件に関して公のコメントを出すことはなかった。しかし、教会内からの支持はあった。
朝日新聞は、駐日大使のマクシミリアン・ド・フュルステンベルク(Maximilian de Furstenberg)にこの事件についてのコメントを求めたが、彼は「私は彼に代わって、この殺人事件と彼にかけられた性的不品行の容疑の両方について、彼の無実を厳粛に確信することを宣言できると思います」と答えている。

謀略説

被害者は1958年12月に英国海外航空がコメット機航路の開始に際して、初めて日本人女性スチュワーデスとして採用された9人の一人だった。
その時期を前後して、他の英国海外航空のスチュワーデスが金や麻薬などの密輸に関与した事件が発覚しており、この事件は国際的・組織的な密輸ルートに関連する謀略事件である可能性も指摘されている。

著名作家の見解

三浦朱門氏
「もし当の神父が事件に無関係なら、なぜ積極的に警察に協力しないのだろう」
と述べて疑問を呈している。

遠藤周作氏は、
「(マスコミは)あたかも彼が真犯人であるかのごとく、その写真を掲載したりその名を発表した。一種の人権蹂躙」
「突然の帰国は一般の日本人の根のない疑惑をさらに深める原因となった」
「潔白なら日本の警察に協力すべき」と批判的な意見を述べている。

田中澄江氏は神父を見舞い、被害者の立場に立った現在の心境を聞き出し
「流暢な日本語である。…事実を曲げた猥雑なペンの暴力にもめげず、澄んできれいな目の色であった」
「警察が、調べる義務があると言えば、幾度でも出頭して、殺人者と見ようとする疑問に答えなければならない」と記録している。

松本清張氏はこの事件をベースにしたノンフィクション『スチュワーデス殺し論』を執筆し、同じく事件をモデルにした小説『黒い福音』も書いている。

映画化

映画『殺されたスチュワーデス 白か黒か』は、猪俣勝人氏が自身のプロダクションで製作し、脚本と監督も手掛けた。


当初のタイトルは「神は人を殺し給うか」だったが、「殺されたスチュワーデス 白か黒か」に改題され、事件発生の同年である1959年の10月6日に大映で公開された。
フィクションと断られてはいたが、カトリック教会からの批判などで公開期間は短かった。

その後、名画座などで上映されたが、後半のレポート部分は全てカットされ、セリフも一部消されたカット版で上映されている。しかし、猪俣勝人氏が教鞭をとっていた日本大学芸術学部映画学科のフィルムライブラリーにはノーカット版が保管されている。


その後、「小説 日本列島」(吉原公一郎)でも取り上げられ、『日本列島』(熊井啓)として映画化された。

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