黙って山へ入って還って来なかった人間の数も、なかなか少ないものではないようである。十二三年前に、尾張瀬戸町にある感化院に、不思議な身元の少年が二人まで入っていた。その一人は例のサンカの児で、相州の足柄で親に棄てられ、甲州から木曾の山を通って、名古屋まできて警察の保護を受けることになった。
今一人の少年はまる三年の間、父とただ二人で深山の中に住んでいた。どうして出てきたのかは、この話をした二宮徳君も知らなかったが、とにかくに三年の間は、火というものを用いなかったと語ったそうである。食物はことごとく生で食べた。小さな弓を造って鳥や魚を射て捕えることを、父から教えられた。
春が来ると、いろいろの樹の芽を摘んでそのまま食べ、冬は草の根を掘って食べたが、その中には至って味の佳いものもあり、年中食物にはいささかの不自由もしなかった。衣服は寒くなると小さな獣の皮に、木の葉などを綴って着たという。
ただ一つ難儀であったのは、冬の雨雪の時であった。岩の窪みや大木のうつろの中に隠れていても、火がないために非常に辛かった。そこでこういう場合のために、川の岸にあるカワヤナギの類の、髯根のきわめて多い樹木を抜いてきて、その根をよく水で洗い、それを寄せ集めて蒲団のかわりにしたそうである。
話が又聞きで、これ以上の事は何も分らない。この事を聴いた時には、すぐにも瀬戸へ出かけて、も少し前後の様子を尋ねたいと思ったが、何分にも暇がなかった。かの感化院には記録でも残ってはいないであろうか。この少年がいろいろの身の上話をしたということだが、何かよくよくの理由があって、彼の父も中年から、山に入ってこんな生活をしたものと思われる。
サンカと称する者の生活については、永い間にいろいろな話を聴いている。我々平地の住民との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を当てにしておらぬ点、次には定まった場処に家のないという点であるかと思う。山野自然の産物を利用する技術が事のほか発達していたようであるが、その多くは話としても我々には伝わっておらぬ。
冬になると暖かい海辺の砂浜などに出てくるのから察すると、彼らの夏の住居は山の中らしい。伊豆へは奥州から、遠州へは信濃から、伊勢の海岸へは飛騨の奥から、寒い季節にばかり出てくるということも聴いたが、サンカの社会には特別の交通路があって、渓の中腹や林の片端、堤の外などの人に逢わぬところを縫うている故に、移動の跡が明らかでないのである。
磐城の相馬地方などでは、彼らをテンバと呼んでいる。山の中腹の南に面した処に、いくつかの岩屋がある。秋もやや末になって、里の人たちが朝起きて山の方を見ると、この岩屋から細々と煙が揚がっている。ああもうテンバがきているなどという中に、子を負うた女がささらや竹籠を売りにくる。箕などの損じたのを引き受けて、山の岩屋に持って帰って修繕してくる。
土地の人とはまるまる疎遠でもなかった。若狭・越前などでは河原に風呂敷油紙の小屋を掛けてしばらく住み、断りをいってその辺の竹や藤葛を伐ってわずかの工作をした。河川改修が河原を整理してしまってからは、金を払って材料の竹を買う者さえあった。しかも土着する者は至って稀で、多くは程なくいずれへか去ってしまう。路の辻などに樹の枝または竹をさし、しるしを残して行く者は彼らであった。小枝に由って先へ行った者の数や方角を、後から来る者に知らしめる符号があるらしい。
仲間から出て常人に交わる者、ことに素性と内情とを談ることを甚だしく悪むが、外から紛れてきてサンカの群に投ずる常人は次第に多いようである。そうでなくとも人に問われると、遠い国郡を名乗るのが普通で、その身の上話から真の身元を知ることはむつかしい。大体においおい世間なみの衣食を愛好する風を生じ、中には町に入って混同してしまおうとする者も多くなった。それが正業を得にくい故に、おりおりは悪いこともするのだが、彼らの悪事は法外に荒いために、かえって容易にサンカの所業なることが知れるという。
しかも世の中とこれだけの妥協すらも敢てせぬ者が、まだ少しは残っているかと思われた。大正四年の京都の御大典の時は、諸国から出てきた拝観人で、街道も宿屋も一杯になった。十一月七日の車駕御到着の日などは、雲もない青空に日がよく照って、御苑も大通りも早天から、人をもって埋めてしまったのに、なお遠く若王子の山の松林の中腹を望むと、一筋二筋の白い煙が細々と立っていた。ははあサンカが話をしているなと思うようであった。もちろん彼らはわざとそうするのではなかった。
かつて羽前の尾花沢附近において、一人の土木の工夫が、道を迷うて山の奥に入り人の住みそうにもない谷底に、はからず親子三人の一家族を見たことがある。これは粗末ながら小屋を建てて住んではいたが、三人ともに丸裸であったという。
女房がひどく人を懐しがって、いろいろと工夫に向かって里の話を尋ねた。なんでもその亭主という者は、世の中に対してよほど大きな憤懣があったらしく、再び平地へは下らぬという決心をして、こんな山の中へ入ってきたのだといった。
工夫は一旦その処を立ち去ったのち、再び引き返して同じ小屋に行ってみると、女房が彼と話をしたのを責めるといって、縛り上げて折檻をしているところであったので、もう詳しい話も聞きえずに、早々に帰ってきて、その後の事は一切不明になっている。
この話は山方石之助君から十数年前に聴いた。山に住む者の無口になり、一見無愛想になってしまうことは、多くの人が知っている。必ずしも世を憤って去った者でなくとも、木曾の山奥で岩魚を釣っている親爺でも、たまたま里の人に出くわしても何の好奇心もなく見向きもせずに路を横ぎって行くことがある。文字に現わせない寂寞の威圧が、久しうして人の心理を変化せしめることは想像することができる。
そうしてこんな人にわずかな思索力、ないしはわずかな信心があれば、すなわち行者であり、或いは仙人であり得るかと思われる。また天狗と称する山の霊が眼の色怖ろしくやや気むつかしくかつ意地悪いものと考えられているのも、一部分はこの種山中の人に逢った経験が、根をなしているのかも知れぬ。
近世の武人などは、主君長上に対して不満のある場合に、無謀に生命を軽んじ死を急ぎ、さらば討死をして殿様に御損を掛け申すべしと、いったような話が多かった。戦乱の打ち続いた時世としては、それも自然なる決意でありえたが、人間の死ぬ機会はそう常にあったわけでもない。死なずに世の中に背くという方法は必ずしも時節を待つという趣意でなくとも、やはり山寺にでも入って法師とともに生活するのほかはなかった。のちにはそれを出離の因縁とし、菩提の種と名づけて悦喜した者もあるが、古来の遁世者の全部をもって、仏道勝利の跡と見るのは当をえないと思う。
その上に山に入り旅に出れば、必ずそこに頃合の御寺があるというわけでもなかった。旅僧の生活をしようと思えば、少しは学問なり智慧なりがなければならなかった。なんの頼むところもない弱い人間の、ただいかにしても以前の群とともにおられぬ者には、死ぬか今一つは山に入るという方法しかなかった。従って生活の全く単調であった前代の田舎には、存外に跡の少しも残らぬ遁世が多かったはずで、後世の我々にこそこれは珍しいが、じつは昔は普通の生存の一様式であったと思う。
それだけならよいが、人にはなおこれという理由がなくてふらふらと山に入って行く癖のようなものがあった。少なくとも今日の学問と推理だけでは説明することのできぬ人間の消滅、ことにはこの世の執着の多そうな若い人たちが、突如として山野に紛れこんでしまって、何をしているかも知れなくなることがあった。自分がこの小さな書物で説いて見たいと思うのは主としてこうした方面の出来事である。これが遠い近いいろいろの民族の中にもおりおりは経験せられる現象であるのか。はたまた日本人にばかり特に、かつ頻繁に繰り返されねばならぬ事情があったのか。それすらも現在はなお明瞭でないのである。しかも我々の間には言わず語らず、時代時代に行われていた解釈があった。それがある程度まで人の平常の行為と考え方とを、左右していたことは立証することができる。我々の親たちの信仰生活にも、これと交渉する部分が若干はあった。しかも結局は今なお不可思議である以上、将来いずれかの学問がこの問題を管轄すべきことは確かである。棄てて顧みられなかったのはむしろ不当であると思う。
これは以前新渡戸博士から聴いたことで、やはり少しも作り事らしくない話である。陸中二戸郡の深山で、猟人が猟に入って野宿をしていると、不意に奥から出てきた人があった。
よく見ると数年前に、行方不明になっていた村の小学教員であった。ふとした事から山へ入りたくなって家を飛び出し、まるきり平地の人とちがった生活をして、ほとんと仙人になりかけていたのだが、或る時この辺でマタギの者の昼弁当を見つけて喰ったところが急に穀物の味が恋しくなって、次第に山の中に住むことがいやになり、人が懐かしくてとうとう出てきたといったそうである。それから里に戻って如何したか。その後の様子は今ではもう何ぴとにも問うことができぬ。
マタギは東北人およびアイヌの語で、猟人のことであるが、奥羽の山村には別に小さな部落をなして、狩猟本位の古風な生活をしている者にこの名がある。例えば十和田の湖水から南祖坊に逐われてきて、秋田の八郎潟の主になっているという八郎おとこなども、大蛇になる前は国境の山の、マタギ村の住民であった。
マタギは冬分は山に入って、雪の中を幾日となく旅行し、熊を捕ればその肉を食い、皮と熊胆を附近の里へ持って出て、穀物に交易してまた山の小屋へ還る。時には峰づたいに上州・信州の辺まで、下りてくることがあるという。
こんな連中でも用が済めばわが村へ戻り、また山の中でも火を焚き米を煮て食うのに、教員までもしたという人が、友もなくして何年かの間、このような忍苦の生活をなしえたのは、少なくとも精神の異状であった。しかもそれが単なる偶発の事件でなく、遠く離れた国中の山村に、往々にして聞くところの不思議であったのである。
マタギの根原に関しては、現在まだ何ぴとも説明を下しえた者はないが、岩手・秋田・青森の諸県において、平地に住む農民たちが、ややこれを異種族視していたことは確かである。津軽の人が百二三十年前に書いた『奥民図彙』には、一二彼らが奇習を記し、菅江真澄の『遊覧記』の中にも、北秋田の山村のマタギの言葉には、犬をセタ、水をワッカ、大きいをポロというの類、アイヌの単語のたくさんに用いられていることを説いてある。
もちろんこれに由って彼らをアイヌの血筋と見ることは早計である。彼らの平地人との交通には、言語風習その他になんの障碍もなかったのみならず、少なくとも近世においては、彼らも村にいる限りは附近の地を耕し、一方にはまた農民も山家に住む者は、傍ら狩猟に因って生計を補うた故に、名称以外には明白に二者を差別すべきものはないのである。
ただ関東以西には猟を主業とする者が、一部落をなすほどに多く集まっておらぬに反して奥羽の果に行くとマタギの村という者がおりおりある。熊野・高野を始めとして霊山開基の口碑には猟師が案内をしたといい、または地を献上したという例少なからず、それを目して異人仙人と称していて、通例の農夫はかつてこの物語に参与しておらぬのを見ると、彼ら山民の土着が一期だけ早かったか、または土着の条件が後世普通の耕作者とは、別であったかということだけは察せられる。
しかも猟に関する彼らの儀式、また信仰には特殊なるものが多い。万次万三郎の兄弟が、山の神を助けて神敵を退治し、褒美に狩猟の作法を授けられたなどという古伝もその一例である。東北ではシナの木のことをマダといい、山民は多くその樹皮を利用する。マタギ村でも盛んにこれを採取しまた周囲にこれを栽培するが、そのマダとは関係がないといっている。或いは二股の木の枝を杖にして、山中を行くような宗教上の習慣でもあって、こんな名称を生じたのではないかとも思うが、彼ら自身は何と自ら呼ぶかを知らぬから、いまだこれを断定することができぬのである。
八郎という類の人が山中に入り、奇魚を食って身を蛇体に変じたという話は、広く分布しているいわゆる低級神話の類であるが、津軽・秋田で彼をマタギであったと伝えたのには、何か考うべき理由があったろうと思う。
天野信景翁の『塩尻』には、尾州小木村の百姓の妻の、産後に発狂して山に入り、十八年を経てのち一たび戻ってきた者があったことを伝えている。裸形にしてただ腰のまわりに、草の葉を纏うていたとある。山姥の話の通りであるが、しかも当時の事実譚であった。
この女も或る猟人に逢って、身の上話をしたという。飢を感ずるままに始めは虫を捕って喰っていたが、それでは事足らぬように覚えて、のちには狐や狸、見るに随い引裂いて食とし、次第に力づいて、寒いとも物ほしいとも思わぬようになったと語る。一旦は昔の家に還ってみたが、身内の者までが元の自分であることを知らず、怖れて騒ぐのでせん方もなく、再び山中の生活に復ってしまったというのは哀れである。
明治の末頃にも、作州那岐山の麓、日本原の広戸の滝を中心として、処々に山姫が出没するという評判が高かった。裸にして腰のまわりだけに襤褸を引き纏い、髪の毛は赤く眼は青くして光っていた。或る時も人里近くに現われ、木こりの小屋を覗いているところを見つかり、ついにそこの人夫どもに打ち殺された。しかるにそれをよく調べてみると、附近の村の女であって、ずっと以前に発狂して、家出をしてしまった者であることが分った。
女にはもちろん不平や厭世のために、山に隠れるということがない。気が狂った結果であることは、その挙動を見れば誰にでも分った。羽後と津軽の境の田代岳の麓の村でも、若い女が山へ遁げて入ろうとするのを、近隣の者が多勢追いかけて、連れて戻ろうと引き留めているうちに、えらい力を出して振り切って、走り込んでしまったという話を狩野亨吉先生から承ったことがある。
山に走り込んだという里の女が、しばしば産後の発狂であったことは、事によると非常に大切な問題の端緒かも知れぬ。古来の日本の神社に従属した女性には、大神の指命を受けて神の御子を産み奉りし物語が多い。すなわち巫女は若宮の御母なるが故に、ことに霊ある者として崇敬せられたことは、すこぶるキリスト教などの童貞受胎の信仰に似通うたものがあった。婦人の神経生理にもしかような変調を呈する傾向があったとすれば、それは同時にまた種々の民族に一貫した宗教発生の一因子とも考えることを得る。しかしもちろん物のついでなどをもって、軽々に取扱うべき問題ではないから、今は単に一二の類例を挙げて置くに止めるが、その一つは三百余年前に、因幡国にあった話で、少し長たらしいが原文のままを抄出する。『雪窓夜話』の上巻に書いてある話である。
「寛永年中のこと也。安成久太夫といふ武士あり。備前因幡国換への時節にて、未だ居屋敷も定まらず、鹿野(今の気高郡鹿野町)の在に仮に住みけり。或夜山に入りけるに、月の光も薄く、木立も奥暗き岨陰より、何とも知らぬ者駆け出で、久太夫が連れたる犬を追掛け、遙かの谷に追落して、傍なる巌窟にかけ入りたり。久太夫不思議に思ひ、犬を呼返して其穴に追入れんとするに、犬怖れて入らざれば若党に命じてかの者を探り求めしむ。人のたけばかりなる猿の如きものなり。若党引出さんとするに、力強く爪尖りて、若党の手を掻破りけるを、漸くに引出したり。久太夫葛を用ゐて之を縛り、村里へ引出し、燈をとぼして之を見るに髪長く膝に垂れ、面相全く女に似て、その荒れたること絵にかける夜叉の如し。何を尋ねても物言ふこと無く、只にこ/\と打笑ふのみ也、食を与ふれども食はず水を与ふれば飲みたり。遍く里人に尋ぬれども、仔細を知る者無し。一村集まりて之を見物す。其中に七十余の老農ありて言ふには、昔此村に産婦あり。俄かに狂気して駆け出でけるが、鷲峰山に入りたり。親族尋ね求むと雖、終に遇ふこと無しと言ひ伝へたり。其年暦を計るに凡そ百年に余れり。もしは此者にてもあらんかと也。久太夫速かに命を助け山に追ひ返しけるに、その走ること甚だ早し。其後又之を見る者無しといへり。」
佐々木喜善君の報告に、今から三年ばかり前、陸中上閉伊郡附馬牛村の山中で三十歳前後の一人の女が、ほとんと裸体に近い服装に樹の皮などを纏いつけて、うろついていたのを村の男が見つけた。どこかの炭焼小屋からでも持ってきたものかこの辺でワッパビツと名づける山弁当の大きな曲げ物を携え、その中にいろいろの虫類を入れていて、あるきながらむしゃむしゃと食べていたという。遠野の警察署へ連れてきたが、やはり平気で蛙などを食っているので係員も閉口した。その内に女が朧気な記憶から、ふと汽車の事を口にし、それからだんだんに生まれた家の模様、親たちの顔から名前を思い出し、ついには村の名までいうようになったが、聴いて見ると和賀郡小山田村の者で七年前に家出をして山に入ったということがわかった。やはり産後であって、不意に山に入ったというのであった。親を警察へ呼び出して連れて行かせたが、一時はこの町で非常な評判であった。なお同じ佐々木君の話の中にこの附近の村の女の二十四五歳の者が、夫とともに山小屋に入っていて、終日夫が遠くに出て働いている間、一人で小屋にいて発狂したことがあった。のちに落着いてから様子を尋ねて見ると、或る時背の高い男が遣ってきて、それから急に山奥へ行きたくなって、堪えられなかったといったそうである。