田舎で聞いた話だ。
在宅介護の仕事をしている友人がいる。担当区域は山に近い集落で、一人暮らしの高齢者の家を巡回している。中でも山際ぎりぎりに建つ一軒家に住む爺さんは、長く無口な人として知られていた。挨拶には応じるが雑談は続かない。体調の確認と最低限の世話を済ませれば、あとは静かな時間が流れるだけだったという。
ところがある時期から、その爺さんが妙によく喋るようになった。天気の話、昔の山仕事の話、酒の話まで、自分から言葉を継ぐ。表情も柔らかく、どこか機嫌がいい。それが一度きりではなく、訪問のたびに続いた。
違和感はあったが、悪い変化ではない。ある日、友人は何気なく聞いた。「最近、ずいぶん元気ですね。何かいいことでもあったんですか」
爺さんは少し間を置いてから、照れたように笑った。「いやあ、飲み友達ができてのう」
山の中で一人暮らしだ。近所づきあいもほとんどない。その言葉に引っかかりを覚えたが、深くは追及しなかった。すると爺さんは続けた。「そうじゃ、あんたも今晩どうだ」
冗談めかした誘いかと思ったが、爺さんは本気だった。世話になっている礼がしたい。酒も肴も用意してある。そう言われ、結局その日の夜にもう一度訪ねることになった。
日が落ち、山の輪郭が闇に溶け始めた頃、友人は再びその家を訪れた。爺さんは昼間以上に上機嫌で迎え入れた。そして案内されたのは居間ではなく、山に面した縁側だった。
なぜ縁側なのかと尋ねると、爺さんは当然のように言った。「お客さんは山から来るんじゃ」
その言い方が妙に断定的で、友人はそれ以上聞けなかった。縁側に座り、二人で酒を飲み始めた。虫の声が近く、闇はすぐそこまで迫っている。
しばらくすると、山の方からざわざわと音がした。草木をかき分けるような、人が下りてくる気配だ。友人は身構えたが、爺さんは落ち着いたまま、闇を見つめている。
やがて、ぼんやりと人影のようなものが見えた。縁側の明かりに向かって降りてくる影に、爺さんが声をかけた。「おお、来たか」
影は手を振りながら近づいてきた。
明かりに照らされて見えた姿は、猿だった。だが、友人が知っている猿とは違う。背丈は小学生ほどで、二足で歩いている。毛は黒く、手足が異様に長い。顔つきも、どこか人間じみていた。
その猿は、人のように縁側に腰を下ろした。友人は言葉を失ったが、爺さんは慣れた様子で湯呑を差し出し、「まあ一杯」と勧めた。猿はそれを受け取り、当たり前のように口をつけた。
爺さんが話しかけると、猿はうんうんと頷く。言葉は発しないが、会話は成立しているようだった。「この人が、いつも世話になるヘルパーさんじゃ」そう紹介されると、猿は友人の方を見て、きちんと会釈をした。
その光景が、夢なのか現実なのか、友人には判断できなかった。ただ、酒の匂いと夜気の冷たさだけがやけに生々しかった。
飲み会は遅くまで続いた。爺さんと猿は昔話に花を咲かせ、山の話をし、時折笑った。やがて猿は立ち上がり、爺さんに手を振ると、闇の中へ戻っていった。草の音が遠ざかり、山は再び静かになった。
友人はその夜、爺さんの家に泊まった。恐ろしくて帰れなかったのではない。ただ、帰るという選択肢が頭から消えていたという。
後日、その話を聞いた私は尋ねた。「その爺さん、今はどうしてる」
友人は何でもないことのように答えた。「今でも元気だよ。よく喋るし。今でも猿と飲んでるんじゃないかな」
その言い方は、冗談とも断定とも取れなかった。
そして私は思う。あの爺さんが元気なのは、飲み友達のおかげなのか。それとも、もう山の側に寄ってしまっているからなのか。どちらが人間で、どちらが客なのか。その境目は、今も縁側の暗がりに残ったままだ。
[出典:567 :元登山者:2007/03/17(土) 19:05:54 ID:FCn9y77U0]