職場の同僚と居酒屋で飲んでいたときに聞いた話だ。
話してくれたのは、設楽という青年だった。都内の大学に通いながら、繁華街のチェーン居酒屋で長くバイトをしている。特別目立つところのない、ごく普通の学生だ。ただ、ふとした拍子に視線が宙を彷徨う瞬間があり、そのときだけ、彼の中に何か置き去りにされた影のようなものが覗く気がした。
「去年の十一月末のことです」
酒もほどよく回った頃、彼はそう切り出した。
その日は講義を終え、夕方前にバイト先へ向かった。まだ客足の少ない時間帯で、店の前の通りには買い物帰りの人や、仕事を早めに切り上げた会社員が流れている。いつもと変わらない風景だった。

違和感は、視界の端をかすめるように現れた。
店の前を、何かがゆっくり横切ったという。
白に近い灰色。人の背丈とほぼ同じ。形は人間に似ているが、近づくにつれ、決定的に違うとわかった。服の皺も、骨の起伏もない。腕も脚も、粘土を均一に伸ばしたように滑らかで、胴体との境目が曖昧だった。
顔があるはずの場所は、ただの平面だった。目も鼻も口もなく、凹凸のない白い面が、前を向いたまま進んでいた。
驚いて外へ出ると、それはすぐ脇を通り過ぎていった。足音はしなかった。視線も合わない。ただ、一定の速度で、何かを追うように歩いていく。
店に戻り、店長や他のバイトに伝えても、誰も見ていないと言った。冗談だと思われ、疲れているなら休めと心配された。設楽自身も、その時点では幻覚だろうと考えた。
だが、数日後、閉店作業の最中に、別のバイト仲間が声を潜めて話しかけてきた。
高校生のシゲルだった。
「設楽さん。店の前、白っぽいやつ、見たことありますか」
言い方が妙に具体的だった。人とか影ではなく「やつ」と言った。
彼の描写は、設楽が見たものと一致していた。のっぺりしていて、顔がない。それだけで、喉の奥が冷えた。
シゲルは続けた。
「あれ、通ってるだけじゃないです。誰かの後ろ、ずっとついてます。一体ずつ」
設楽は、その言葉を笑い飛ばすことができなかった。思い返せば、あれが歩いていた位置は、通行人のすぐ後ろだった。
さらにシゲルは言った。
「時間帯が違うと、別のやつが来ます。色も違うし、欠けてるところも違う。でも、同じ人の後ろを歩いてます」
二人は、その日のうちに話を切り上げた。深く考えないほうがいいと、互いに思ったからだ。
だが、数日後、二人は休みを合わせ、店の近くで様子を見ることにした。理由は説明できない。ただ、確認しないままではいられなかった。
午前十時過ぎ、現れたのは、右肩から脇腹にかけて黒く欠けた個体だった。後ろを歩いていたのは、二十代後半くらいの女性だった。距離は常に一定で、信号で止まっても、歩き出すタイミングも揃っていた。
女が向かった先は、大通り沿いのテレビ局だった。
正面玄関の前で、設楽は足を止めた。
周囲の空気が、そこで変わっていた。
人のような形をしたものが、点在していた。数を数える気にならないほどだった。白、灰色、黒。上半身のないもの、頭の半分が歪んだもの、表面が崩れかけているもの。それらが、建物の周囲に溶け込むように佇んでいた。
設楽は、自分の視力がおかしくなったのだと思おうとした。だが、シゲルの呼吸が荒くなっているのが伝わってきて、否定できなかった。
テレビ局から出てくる人間の背後に、それらが自然に重なっていくのが見えた。誰も気づかない。誰も立ち止まらない。
そのときだった。
背後に、気配が生まれた。
振り向く前から、それがいるとわかった。白く、均一で、顔のない平面が、すぐ近くにあった。
「ねえ」
声がした。掠れたノイズのような音で、どこから出ているのかわからない。
「気付いてるの」
設楽は反射的にシゲルの腕を掴み、引き寄せた。耳元で、ほとんど息だけで伝えた。
振り向くな。返事をするな。何も見えていないふりをしろ。
理由はなかった。ただ、そうしなければならないと、体が知っていた。
歩き出すと、足並みの乱れない気配が増えた。数は、意識するたびに変わった。多いのか少ないのか、はっきりしない。ただ、背後が空くことはなかった。
駅へ向かい、電車に乗り、別の町へ移動しても、それは続いた。声を発するのは、最初の一体だけだった。
「わかってるんでしょ」
その言葉が、距離も方向も関係なく、耳の内側に響いた。
夜になり、人通りが減るにつれて、いつの間にか数は減っていた。最後に残った二体は、設楽の自宅の最寄りまでついてきたが、部屋に入る頃には消えていた。
深夜、布団に入ろうとしたとき、シゲルから電話がかかってきた。
「設楽さん、さっきまで……」
そこまで言って、言葉が途切れた。
「最後に、変なこと言われました」
何を、と聞く前に、通話が切れた。
翌日、バイト先で聞かされたのは、シゲルが自宅で事故に遭い、入院したという話だった。本棚の下敷きになったらしい。命に別状はないと、店長は淡々と告げた。
病室を見舞うと、シゲルは穏やかな顔をしていた。昨日のことを、何も覚えていなかった。テレビ局の話も、白いものの話も、最初からなかったように。
それから数日後、設楽の視界からも、あれらは消えた。
ただ、完全に元に戻ったわけではない。繁華街を歩いていると、ときどき、誰かの背後が不自然に空いている瞬間がある。そこに何もいないことを、なぜか強く意識してしまう。
あのテレビ局の前を通ると、足取りがわずかに乱れる。何も見えない。ただ、それだけだ。
見えないままでいることが、本当に安全なのかどうか。
その答えを、設楽は今も口にしない。
[出典:8571:sage 2012/04/29(日)20:38:15.16ID:xwR1mIdl0]