三月十四日、私の作業机には、同じ三つの言葉が違う場所に置かれていた。
会館の作業票に印刷されたもの、千鶴さんの練習録音から私が書いたもの、神尾さんが昨日の聞き取りで言及したもの。付箋には、作業票、私物録音、聞き取り、と書いた。同じ三行を一枚にまとめようとすると、机は片付く。その一枚を作らずに、打合せの時刻まで待った。

映像会社の担当者に、沖野さんを交えて説明した。オンラインの画面で、相手は編集に使った素材を示した。無音の四十三秒へ、千鶴さんの録音の声を付ければ、設備試験の意味は分かりやすくなるのではないかと、彼は言った。視聴する人の理解を助けたいという提案だった。
「それをすると、残っていた音のように聞こえます」
担当者は、声の入った別のファイルを画面へ置いた。私は千鶴さんの青いケースを思い出し、使う許可もまだ取っていません、と伝えた。ファイルは試聴室の映像から離され、素材欄へ戻った。
「最初から、試聴って何をする部屋か聞いておけばよかったです」
担当者が言った。沖野さんは、今回の説明を直すにしても、担当者一人の誤読として片付けないと答えた。会館が渡した一覧表にも、設備試験の目的は記されていなかった。確認を頼まれた人が、何を確かめればよいか分かる形にしていなかった。
打合せのあと、私は元の「無音」という指示を消さずに残し、その下へ訂正案を書いた。小さな録音ノイズはあるため「音声が完全にない」とも書けない。さしあたり〈この区間では、人の声や現場の物音を記録から確認できない〉とした。そのあとに付ける証言は、字幕だけで同時に見せるには多すぎた。
沖野さんにそのまま送ると、「上映の形自体を考えます」と返ってきた。三月十六日に施工業者を交えた確認が入っている。そこへ持参する資料として、彼女は昔の声の正体をまとめた文章ではなく、現在の部屋の接続と、現場にいる人をどう確認しているかが分かるものを求めた。私は、字幕の仕事から離れていく感じがしていたが、依頼の最初に確認できなかったのも、まさにその二つだった。
夕方、資料を届けに会館へ寄ると、宮坂さんが一人で古い撮影記録を見ていた。備品の貸出しを記した大学ノートで、表紙の隅に映像クラブの名前がある。彼は一九八九年二月の頁を開き、借りた機材の欄を私へ向けた。手書きの「三脚」の字だけが、ほかより大きかった。
「自分で書いた字です。こんなのを見ると思い出すのに、肝心なところは出てこない」
宮坂さんは、少年のころ、撮影を止めずに持ち歩いて叱られたと話した。映像に床ばかり入るし、テープも無駄になる。その一方で、作業の途中では勝手に止めるなとも言われた。何が途中で、何が終わりなのか、十六歳の彼には機材の音から判断できなかった。
「伊原さんが出たところは、見たと思います。あの靴の話も、聞いた気がする。でも、それを話していただいたあとだから、今、自分の記憶として使うのは危ないですね」
私は録音機を机へ出していたが、まだ入れていなかった。話を記録してよいか確認すると、宮坂さんは少し考え、いまの「気がする」まで残してほしいと言った。
階段で撮影が途切れた箇所を見せると、彼はそこでカメラを止めたのは自分だと思う、と答えた。階段は両手が空いていないと危ないため、機材を抱え直したのだろう。再開した画面は少し傾き、神尾さんの肩が大きく入り、その奥に千鶴さんが立っている。宮坂さんは画面の端の女性を指した。
「ここにいる。僕もそこにいた。それなのに、誰も入っていないかどうか、また下へ見に行ったんです」
それは映像では確かめられない、彼の記憶だった。頼まれた相手は覚えていない。調整室を出て廊下へ下り、扉を開け、椅子の下を見た。どうして椅子の下なのかと私が尋ねると、「人が隠れる場所なんか、なかったんです」と答えた。カメラは持っていかなかったので、その空の部屋の映像もないという。
「戻って、いませんって言いました。そうしたら、もう一度確かめるってことになった。僕は自分の見方が足りなかったんだと思ったんです」
宮坂さんは、何往復したかを指で数えかけた。二本目でやめ、あの階段は撮影のたびに上がっていたんです、と言った。いくつもの日の足音が、同じ踊り場で重なっているようだった。
私は試験票を出した。〈備考 終了後、室内を確認〉。宮坂さんはその行を読み、末尾の丸印を見た。
「これ、僕の確認のことかもしれません」
「ご自分で丸を付けましたか」
「それは違います。こういう紙には触らせてもらえなかった」
欄外の鉛筆の「宮坂」は彼の字ではないという。記録補助の名前として、あとから誰かが加えたものだった。部屋を見たのが彼だとしても、記録には誰が見たか書かれていない。しかも「終了後」という順序は、試験中に彼が往復したという話と、必ずしも一致しなかった。
丸を一つ付ければ済む書式が、三十六年後にも使える説明として残っていた。私はその丸を写真で拡大した。鉛筆の線が始点で少し重なっているだけで、誰の筆跡とも決められない。拡大すれば人が出てくるような気がした自分を、そこでようやく止めた。
「今回も、僕は入って、いないと確かめました」
宮坂さんはノートを閉じた。
「三月四日のことですね」
「はい。ところが、外の人は、あの声を僕だと思っていた。僕は声の人を探して入ったのに」
宮坂さんは閉じたノートを机の端へ押した。私は客席の動画を思い出していた。堀内さんが両手を口へ寄せた時点で、宮坂さんは声のした部屋に入っている。どちらも、見えていない人へ話しかけていた。
「僕は、調べれば音の経路が分かると思ってます。それはちゃんと調べます。ただ、そこが分かったら、僕がどうしてあの扉を開けたかまで分かったことには、しないでください」
言い終えて、宮坂さんは私のメモを読んだ。神尾さんの証言とは分けておいてほしい、と頼んだ。私は神尾さんの記録を閉じ、宮坂さんの話だけを残した。
私は了承し、三月四日の欄に一本、太い線を引いた。その上に「現在の確認事項」と書く。現時点で部屋のスピーカーにつながっているものは何か。作業中の人の居場所は、誰が、どのように確かめているか。過去を読むうちに、その質問を後回しにしていた。
帰りに二階から下りるとき、宮坂さんは私の後ろにいた。踊り場で足音が止まったので振り返ると、彼は閉じたノートを脇へ挟み直していた。私は「大丈夫ですか」と声をかけかけ、顔を見て待った。彼が手すりに手を置き、一段下りたところで、私も階段へ向き直った。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。登場する人物、団体、場所、出来事、取材、録音、映像および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。