一年前のことだ。当時の私は、ネットゲームというものにほとんど縁がなかった。
リアルでもそこそこ忙しく、人と話すのが得意なほうでもなかったから、MMOなんてものは縁遠い存在だったはずだ。
だけど、軽い気持ちで始めてしまった。
きっかけは友人の一言だった。
「面白いから一緒にやろうよ」
そんな些細な誘いだった。
慣れない世界でおどおどしていた私を拾ってくれたのは、ある大規模ギルドだった。
たまたま入れてもらったその集団には、プレイ歴の長いベテランもいれば、顔見知り同士で盛り上がる仲間たちもいて、正直、最初は肩身が狭かった。
それでも、私を可愛がってくれる人たちがいて、わかりやすく優しく、いろいろなことを教えてくれた。
中でも、マサルというプレイヤーの存在は群を抜いていた。
レベルは高く、珍しい装備もいくつも持っていて、ギルドの誰からも一目置かれる存在だった。
そんなマサルが、なぜか私にだけ、特別な優しさを向けてくれていた。
最初は単純に嬉しかった。
一人前のプレイヤーとして扱ってくれているようで、自尊心がくすぐられた。
だけど、それは少しずつ……ほんの少しずつ、私を縛る鎖になっていった。
たとえば、「今、何してるの?(´・ω・)」というような耳打ち(個別チャット)が、ゲームに入るたびに飛んでくるようになった。 ソロで狩っていると、すぐに「誰かと一緒なの?」 返事をしないと、数分もたたずにそのマップにマサルが現れ、画面全体に響く「(´・ω・
)」というチャット。
まるで私の行動すべてが、見られているような気がしてならなかった。
マサルは関西の大学生。
私は北海道の社会人。
その距離感が、逆に危機感を鈍らせたのかもしれない。
けれど、メールが来るようになったあたりから、雲行きが変わっていった。
「どうして最近INしないの?(´・ω・)」 「寂しいよ。僕はこんなに好きなのに(´・ω・
)」
最初のうちは適当に返していた。
でも、そのうちメールの頻度が増え、時間帯が狂い始めた。
夜中、午前三時、仕事中の昼休み、休日の朝。
時間も状況もお構いなし。
まるで呼吸のように、彼の言葉が端末を通じて送り込まれてくる。
私はようやく限界を感じて、明確に線を引いた。
「マサルだけを特別に思っているわけじゃない。夜中のメールも迷惑だからやめて」
送った直後、すぐに返信が届いた。
「(´・ω・`)」
ただそれだけ。
私は、その顔文字を見るのも嫌になっていた。
ゲームを離れた。
ログインしない日々が三週間ほど続いたある日、ギルドの仲のいいメンバーから、気軽な文面のメールが届いた。
「最近見ないけど元気?そうそう、マサルが大学辞めたらしいよ~忙しいみたい」
マサルが大学を辞めた……?
嫌な予感がした。でも、気にしないよう努めた。
現実の世界で、私は別の顔を持っている。某資格学校で講師をしており、定期的に体験講座も開催していた。
その日もイベントがあり、授業後に受講者アンケートを確認していた。
無意識にスクロールしていた手が止まった。
理由もわからず、その画面に凍りついた。
【授業の感想】
(´・ω・`)
【講師の印象】
(´・ω・`)
【氏名】
マサル
【住所】
関西
目の前が、真っ白になった。
呼吸が浅くなって、鼓動が耳の奥で反響した。
何気なくマサルに話したことがあった。
「札幌の駅前で、PC系の資格学校に勤めてるんだよね」
それだけだった。それだけだったのに。
彼は……来たのだ。
受講者の中に混ざって。
どんな顔で、どの席にいたのか、何も思い出せない。
そもそも、顔を知らない。
私の名前を呼ばれた覚えもない。
なのに、そこに、いたのだ。
私は仕事を早退し、自宅へ戻ることもできず、そのまま車を飛ばして実家に避難した。
怖くて、背中を向けるのもいやだった。
翌日が休日だったのが唯一の救いだった。
ゲームを通じて知り合った仲間たちには事情を話し、引退を宣言した。
その後、携帯を変え、退職して、結婚という名目で北海道を離れた。
マサルは、その後も北海道で仕事を探しているらしいと、誰かが教えてくれた。
もう、知りたくなかった。
あれからも、「(´・ω・`)」という顔文字を見ると吐き気がする。
ネット上に溢れている、ありふれた記号が、私にとっては呼吸を止める合図になった。
もう二度と、ネトゲには手を出さない。
画面の向こうに何がいるか、わからないから。
(了)
[出典:10 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/12/21(土) 21:59:12.75 ID:dZUnuoHG0]