ロープウェイなど普段は使わないが、ときどき高い場所から谷や峰を見下ろしたくなる。
理由は特にない。そういう気分になる日があるだけだ。
時季外れだったせいか、客は俺のほかに夫婦らしい男女が二人いるだけだった。ゴンドラは静かに動き出し、眼下に森が沈んでいく。晴れてはいたが途中から雲に入り、窓の外は白く濁った。いちばん景色がよさそうな区間で雲に捕まるとは間が悪い。ため息をつき、ザックから携行食のチョコレートを取り出して口に放り込んだ。
やがて減速し、ゴンドラが止まった。プラットフォームだ。係員が扉を開け、例の二人連れが立ち上がる。
「しばらくご一緒しませんか」
山では珍しくない言い回しだと思い、頷いて腰を上げた。その瞬間、胸の奥で小さな引っかかりが生じた。ここまで来るには、早すぎる。
「すみません。この先で降りますから」
自分でも理由が分からないまま、係員にそう告げた。二人連れも振り返り、軽く会釈をする。
「そうですか。ではお気をつけて」
係員はそれだけ言い、二人を降ろした。扉が閉まり、ゴンドラは再び動き出す。俺一人になった。
反射的に振り返った。そこには、何もなかった。白い雲と、途切れない索道だけが続いている。プラットフォームも、人影も、最初から存在しなかったように。
息を整えようとして、うまく吸えないことに気づいた。さっきの会話を思い返そうとすると、言葉の輪郭が曖昧になる。夫婦だったはずの二人の顔も、もう思い出せない。
ゴンドラは何事もなかったかのように進み続ける。係員の姿も見えない。アナウンスもない。雲を抜けても、あの停車の痕跡はどこにもなかった。
上まで行ったら、小さなケルンを二つ作ろう。そう考えた瞬間、なぜ二つなのか分からなくなった。その数だけが、理由を失ったまま頭に残った。
[出典:754 :全裸隊 ◆CH99uyNUDE :2005/04/05(火) 21:18:18 ID:11bI3o160]