導入:昭和末期に響いた、自由への弔鐘
昭和という時代が終焉を迎えようとしていた1987年5月3日、憲法記念日の夜。兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に、黒い目出し帽の男が押し入り、散弾銃を発砲した。小尻知博記者(当時29歳)が命を落とし、犬飼兵衛記者(当時42歳)が重傷を負った。これは単なる殺人事件ではない。ペンではなく、銃弾によって言論を封殺しようとした、日本社会の根幹を揺るがすテロリズムの始まりだった。
「赤報隊」と名乗る犯人グループは、その後も朝日新聞各拠点への襲撃や要人脅迫を繰り返し、日本中を震撼させた。しかし、大規模な捜査網も空しく、全ての事件は公訴時効を迎え、犯人の姿は今も深い闇の中だ。
事件から30年以上が経過した今、私たちは公開情報という限られたピースから、犯人の輪郭を再び描き出すことはできないだろうか。これは、過去の事件を蒸し返すための試みではない。暴力が言論を凌駕しようとした時代の歪みを直視し、私たちの社会が何を問われたのかを再考するための知的な挑戦である。最新のプロファイリング手法と論理的推察を武器に、この日本史に残る未解決事件の深層へ、もう一度分け入ってみたい。
事実の整理:周到に計画された連続テロ
まず、憶測を排し、確定している事実を冷静に並べてみよう。
【事実】
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連続性: 1987年1月24日の朝日新聞東京本社銃撃から、1990年5月17日の愛知韓国人会館放火事件まで、少なくとも7件の事件が「赤報隊」の名の下に実行された。
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手口の一貫性: 襲撃事件では銃身を切り詰めた改造散弾銃が使用され、現場に薬莢を残さない手際の良さを見せた。弾丸は米レミントン社製の7.5号散弾で統一されていた可能性が高い。
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犯行声明: 犯行後、「赤報隊」または「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊」を名乗り、時事通信社や共同通信社にワープロ(シャープ製「書院」WD-20/25と推定)で作成された犯行声明文を送付。声明文の封筒は正確に八つ折りにされており、強いこだわりが窺える。
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思想的背景: 声明文には「反日分子」「反日マスコミ」といった言葉が頻出し、戦後民主主義体制への強い憎悪と戦前回帰への渇望が表明されている。特に、中曽根康弘元首相(当時)の靖国神社参拝中止や教科書問題への対応を「日本民族を裏切った」と激しく非難した。
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標的の拡大: 当初は朝日新聞社に集中していたが、後にリクルートの江副浩正元会長や韓国関連施設へと標的が拡大。その理由は「朝日に広告を出した反日企業」「反日的な在日韓国人」などとされた。
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未解決: 大規模な捜査にもかかわらず、犯人特定には至らず、2003年3月までに全事件の公訴時効が成立した。
犯人像プロファイル:闇に潜む「思想犯」の肖像
これらの事実から浮かび上がる犯人(あるいは犯人グループ)の像を、複数の側面からプロファイリングする。
【推測】
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心理特性:
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高い計画性と自己統制力: 衝動的な犯行ではなく、リスクを計算し尽くした上で冷静に任務を遂行する能力を持つ。阪神支局襲撃では、1分足らずで2人を発砲し、無言で立ち去るなど、極度の緊張下でも行動をコントロールできている。
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歪んだ選民思想と自己顕示欲: 自らを「反日分子を処刑する実行部隊」と位置づけ、その行動を「天誅」と正当化する強い信念を持つ。メディアに声明文を送りつける行為は、自らの思想と存在を世に知らしめたいという強い自己顕示欲の表れである。東京本社銃撃が報道されなかったことに憤慨し、阪神支局での凶行に及んだ点は、その歪んだ承認欲求を物語る。
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執念深さと冷酷さ: 朝日新聞社に対する執拗な攻撃は、個人的な怨恨に近いほどの強い敵意を示唆する。人の命を奪うことへの躊躇がなく、目的のためには手段を選ばない冷酷な側面を持つ。
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技能・知識:
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銃器・爆発物の専門知識: 散弾銃の改造、射撃技術、弾薬の選定に至るまで、銃器の扱いに極めて習熟している。また、静岡支局の事件では時限式発火装置付きのピース缶爆弾を製造しており、爆発物に関する知識も有していた。
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情報・メディアリテラシー: 犯行声明を送付する相手として大手通信社を選ぶなど、情報がどのように拡散されるかを理解している。ワープロという当時比較的新しい機器を使いこなしている点も特徴的だ。
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地理的知識と広域移動能力: 兵庫、東京、名古屋、静岡と広範囲で犯行を重ねており、各都市の土地勘と、それらを移動するための手段(車両など)と時間を確保できる生活状況にあったと考えられる。
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行動様式・生活圏:
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周到な事前準備: 阪神支局周辺で不審車両が複数目撃されていることから、犯行前に綿密な下見を行っていた可能性が高い。
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東海地方との関連性: 名古屋での事件が複数あり、静岡で脅迫状が投函されていることから、犯人の生活圏や活動拠点の一つが東海地方にあった可能性が指摘されている。
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社会への擬態能力: これほどの大事件を起こしながら、日常生活ではその過激な思想や行動を完全に隠し、周囲に溶け込んでいたと考えられる。ごく普通の市民、あるいは社会的に評価される職業人として「擬態」する能力に長けていた可能性もある。
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象徴選好:
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歴史・思想への傾倒: 「赤報隊」という名称は、幕末に「偽官軍」として処刑された勤皇の志士「相楽総三」の部隊に由来する。これは、自らを「正当な義憤に駆られたが、世に認められない悲劇の徒」と自己規定している可能性を示唆し、歴史や特定の思想への深い傾倒を物語る。
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言語パターン: 「反日」という言葉を多用し、「五十年前にかえれ」と主張する声明文は、単なる右翼思想というより、戦後日本のあり方そのものを根本から否定する、より純粋で過激な国粋主義的思想を反映している。
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犯行シナリオ比較:単独犯か、組織か
これらのプロファイルを基に、犯行の全体像について3つの代替シナリオを提示し、比較検討する。
【仮説A】狂信的単独犯シナリオ
一人の特異な人物が、強固な思想に基づき、すべての犯行を計画・実行したとする説。
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尤度の根拠: 声明文の文体、ワープロの機種、手口に一貫性が見られる。単独犯であれば情報漏洩のリスクはゼロに近く、長期にわたり逃亡できた事実を最もシンプルに説明できる。
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反証条件: 各地の事件現場で採取された物証(指紋、DNAなど)が、別人のものであると証明されること。あるいは、複数の事件が同時に異なる場所で発生した場合(本件では該当しない)。
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検証方法: 未公開の捜査資料にある遺留指紋・掌紋が、すべて同一人物のものか再検証する必要がある。
【仮説B】思想的結社(小規模グループ)シナリオ
思想的指導者(司令塔)、複数の実行犯、後方支援担当者など、役割が分担された2〜5人程度の非合法グループによる犯行とする説。
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尤度の根拠: 広域にわたる連続犯行の遂行には、車両、資金、潜伏先の確保など後方支援が不可欠であり、グループの方が現実的だ。各地での目撃情報における犯人像(年齢や体格)のばらつきも説明できる。思想的指導者が声明文を一括して作成し、実行犯が各地で犯行に及んだ可能性がある。
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反証条件: すべての物証や目撃証言が、矛盾なく一人の人物に収斂すること。
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検証方法: 複数の実行犯がいたと仮定し、それぞれの事件の地理的・時間的関連性をクラスター分析することで、グループの構造や移動パターンを推測する。
【仮説C】既存組織からの「分派」または「黙認」シナリオ
特定の右翼団体や思想グループに所属、あるいは強い影響下にあった人物(単独または複数)が、組織の公式命令ではなく、いわば「義勇兵」として独自に決起したとする説。組織はこれを公には支持しないが、内心で共感し、黙認あるいは陰で支援した可能性も含む。
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尤度の根拠: 声明文の思想が、当時活動していた特定の団体(新右翼など)の主張と酷似している。元捜査関係者や関係者周辺から、特定の団体や人物(例:野村秋介氏周辺)への疑惑が指摘され続けている。
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反証条件: 犯人がどの既存組織とも思想的・人的な繋がりがなかったことを証明する物証の発見。
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検証方法: 当時の公安資料を再検討し、各団体の内部文書や機関紙の論調と、赤報隊の声明文との詳細なテキスト比較分析を行う。
ベイズ的評価(直感的比較)
各仮説の「もっともらしさ」を直感的に評価してみよう。
【推測】
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事前確率(事件が起こる前の蓋然性): 80年代後半の日本には、過激な思想を持つ右翼団体やその同調者が少なからず存在した。そのため、【仮説C】や【仮説B】が生まれる土壌は十分に存在したと考えられる。一方、これほどの技能と計画性を持つ突出した単独テロリストが出現する確率は、相対的に低いかもしれない(【仮説A】の事前確率はやや低い)。
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尤度(その仮説が、観測された証拠をどれだけうまく説明できるか): 【仮説B】(小規模グループ説)は、手口の一貫性と目撃情報の多様性、犯行の地理的広がりという、一見矛盾する要素を最も無理なく説明できる。単独犯では移動や準備の負担が大きすぎ、既存組織の犯行としては行動が限定的すぎる。【仮説A】は目撃情報の多様性を、【仮説C】はなぜ組織としてより大きな行動に出なかったのかを説明しきれない部分がある。
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結果: 以上のことから、【仮説B】思想的結社(小規模グループ)シナリオが、最も説明力が高い有力な仮説であると推測される。おそらく、声明文を書き、全体の計画を立てる知的な司令塔役と、銃器の扱いに長けた軍事的な実行役という、異なるスキルを持つ人物を含むグループだったのではないだろうか。
検証提案
時効が成立した今、刑事訴追は不可能だが、真相究明のためにできることは残されている。
【提案】
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未公開捜査資料の再分析: 警察が保管する遺留指紋や掌紋、声明文のより詳細な分析結果などを、現代の科学技術(AIによる文体分析など)を用いて再評価する。
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関連団体・人物の出版物の網羅的分析: 赤報隊の声明文が出現する前後の、類似思想を持つ団体の機関紙や出版物を網羅的に収集し、言語パターンや思想の変遷を追跡する。これにより、「赤報隊」思想の源流や影響関係が明らかになる可能性がある。
認知バイアス点検
我々の推理もまた、認知バイアスの影響を免れない。
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確証バイアス: 「犯人は右翼」という強い仮説に囚われ、それに合致する情報ばかりを重視し、矛盾する可能性(例えば、元自衛官説や旧統一教会関係者説など)を軽視していないか、常に自問する必要がある。
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後知恵バイアス: 事件が未解決に終わったという結果を知っているため、犯人を「捕まえようがないほど完璧な計画を立てた超人」として過大評価している可能性がある。実際には、いくつかの幸運が重なって逃げ切れただけかもしれない。
結語:銃弾は、今も私たちの自由を問い続けている
「赤報隊」を名乗る犯人の姿は、今もなお昭和史の深い闇に溶け込んだままだ。彼らが目指した「五十年前」の日本は訪れず、その行動は社会から決して受け入れられなかった。しかし、彼らが放った銃弾が突きつけた問いは、決して過去のものではない。
「自分と異なる意見を、暴力で封殺することは許されるのか」
「社会の分断と不寛容が生み出す、最も醜い怪物は何か」
犯人が誰であったかを知ることは、歴史の正義のために重要だ。しかしそれ以上に、なぜこのような事件が起きたのか、その土壌となった社会の空気を忘れないことこそが、私たちに課せられた重い宿題である。犯人の影を追い続けることは、暴力に屈せず、自由な言論の価値を再確認し続けるという、未来への誓いなのだ。この謎が完全に解明される日まで、私たちの思考と検証は、決して止まってはならない。
(了)