九州の奥、山と藪に囲まれた集落にある古い家で、正月に一族が集まった。
年始の陽射しが縁側から差し込み、外は冷たい空気、座敷には酒と湯気が満ちていた。
その上座、籐の揺り椅子には、笑みだけを残したまま記憶を失いつつある婆ちゃんが座っていた。
婆ちゃんは、ほとんど自分から動かない。声をかければ、にこにこと「ありがとうございます」と返すだけ。
孫だとわかっていないようでも、やわらかい笑顔があった。
その日、父の兄弟が久しぶりに全員揃った。中でも末弟は海外赴任からの帰国で、父は前日から落ち着かない様子だった。
料理は母と叔母たちが張り切って並べ、笑い声と酒の匂いが座敷を満たしていく。
父が亡き爺さんの口調を真似て「気をつけぇっ」と叫ぶと、皆が腹を抱えて笑った。
ふと見ると、籐の椅子の婆ちゃんの顔が曇っていた。
唇がかすかに動き、下を向いたまま何かを囁いている。
「大丈夫?」と声をかけても、返事はない。
やがて従兄弟が気づき、皆が「疲れたんだろう」と言い合った。
父が「部屋に連れてけ」と言い、せっかくだからと写真を撮ることになった。
シャッターの光が弾けた瞬間、婆ちゃんの体が大きく震えた。
そして、乾いた声が座敷を裂いた。
「シゲル……この男じゃ……父様を殺したのは」
震える指が、父を指していた。
名前を呼ばれた末弟が固まり、座敷が沈黙した。
「藪で……父様を斬って……お前を捨てるよう言ったとぞ」
泡をためた口から、途切れ途切れの言葉が落ちる。
父は顔色を変え、「連れて行け」と母に怒鳴った。
母に抱えられながらも、婆ちゃんは髪を振り乱し、なおも父を睨みつけた。
「人殺し……シゲル許してくれ……」
その名を聞いたとき、背中に冷たいものが走った。
村には昔、カワシマの藪と呼ばれる裏山で、地主が鉈で殺された事件があった。
犯人は捕まらず、噂だけが藪の奥に沈んでいる。
婆ちゃんは、その地主の妻だった人。
そして、シゲルという息子は事件の後、遠い町に貰われていったらしい。
爺さんは戦後、何も持たずに帰ってきたはずだった。
それなのに、大きな屋敷を構え、土地を手に入れていた。
父も叔父たちも、その理由を誰も口にしなかった。
婆ちゃんはその年の終わり、施設に入った。
何がきっかけで記憶の底からあの日の光景を掬い上げたのかは分からない。
ただ、藪の名前を思い出すたび、胸の奥で誰かの足音が近づく気がする。
[出典:613 :1/3:2011/02/25(金) 02:54:46.52 ID:X0zMHTwP0]