子供の頃から、行ったこともない町の光景を知っていた。
知っている、というより、確信していると言った方が正しい。
夢の中に必ず出てくる町だ。
川を渡る古い橋を越えると、まずガソリンスタンドが見える。夢の最初の場面は、いつもそこから始まる。舗装のひび割れにたまった雨水の跡、油の匂い、作業服を着た男の無表情。そんな細部まで、ありありと覚えている。
交差点を左に折れると、虎の顔が大きく描かれたセメント工場のタワーがそびえている。その不気味な笑みは子供心に怖くて、夢の中の私はいつも早足でそこを通り過ぎる。しばらく進むと警察署があった。灰色の建物の駐車場はやけに広く、そこでは夏祭りの花火を眺めた記憶がある。屋台でアユを焼いている煙の匂いも、なぜかはっきりと残っている。
右に曲がると、二軒の家が並んでいる。その家の間取りまで、私は知っていた。玄関から入るとすぐ左に和室があり、廊下を抜ければ台所、奥には縁側。その縁側に干された洗濯物の重さや、畳の擦れる感覚までもが現実のように鮮明だった。
どうして知っているのかは分からない。ただ、ずっと昔から夢で見ていた。
そしてその家には、見知らぬはずの家族が住んでいた。父親は公務員で、母親は声が甲高く、娘は妊娠している。彼らの名前も顔も知っている。まるで自分の親戚のように、当たり前に。
さらにその町には議員がいて、何度も夢の中で話をした。現実でテレビを見ていると、その議員が映っていたことがある。地方の一介の政治家にすぎなかったはずが、今では堂々とニュース番組に出演している。私が夢で会っていた人物そのままの顔、声、癖。
初めてグーグルマップのストリートビューを使ったとき、私は迷わずその町を探した。夢の中の風景が、地図の中に正確に再現されていた。虎の描かれた工場、小さな公園、変わった名前のホール。すべて夢と同じだった。ただひとつ、ガソリンスタンドだけは夢とは違い、個人経営からチェーン店に変わっていた。
私は二十三歳になった。免許を取り、車を運転することになったとき、まるで初心者ではないようにハンドルを握れた。曲がり角の感覚も、バックの際の車体の揺れも、知っている。夢の中で孫を観光地へ車で連れて行った記憶が、現実の手を導いていた。
夢の町では、私は祖母であり、母であり、あるいは少女でもあった。時系列はばらばらで、あるときは白黒写真を撮るカメラマン、またあるときは孫とプールに出かける老婆。アメリカの偵察機が低空飛行してくる光景さえ見た。竹やぶに身を隠す恐怖の感覚が、生々しく蘇る。
昔、小さな頃に高熱を出したとき、天井に映像のように知らない生活の断片が映ったことがある。あれが最初だったのかもしれない。
汲み取り式便所の匂い、玉置浩二の歌声、森昌子を「かわいい」と評した自分の声。娘のような存在に「デビューした頃はタワシみたいな頭だった」と笑われた記憶。……それはまるで他人の人生をなぞるような、断片の連なりだった。
その町には夜逃げした家族が残していった犬もいた。私はよくその犬に残飯を運びに行った。廃屋の玄関先で待っている犬の目、骨ばった体を撫でたときの毛並みまで、夢の中で触れたように感じられた。その家は、ストリートビューで見ると更地になっていた。
私は時折思う。これは前世の記憶なのか、それとも誰かの記憶が流れ込んでいるのか。
もし後者だとしたら、その「誰か」はまだ生きているのだろうか。
不意に背筋が寒くなる。私はその家の主人のフルネームまで知っている。妻の名前も、娘の名前も、息子の勤め先も。孫がヘッドレストの日焼けをこすって黄色い粉を出す様子まで。まるで家族写真の中にいるように。
結婚するときは、相手を連れてその町の「虎の祭り」を見に行きたいと夢想している。夢の中で家族が集まっているはずだから、道に迷ったふりをしてその家を訪ねる。そうすればきっと、現実と夢とが繋がるのだと。
……しかし、そう考えた瞬間、私はあることに気づく。
夢の中で、あの家の縁側に座る老人の姿を何度も見ていた。
その老人の横顔は、紛れもなく――今の自分自身だった。
私は、これから先の未来を夢に見ていたのか。
それとも、夢が私の未来を作り上げているのか。
答えは分からない。ただひとつ確かなのは、いつかその家の扉を叩いたとき、中から出てくる顔はきっと、私の顔そのものだということだった。
[出典:447 :本当にあった怖い名無し:2016/06/18(土) 04:28:04.37 ID:WwsWgeJ10.net]