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一拍遅れる足音 rw+3,229

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深夜二時を回ると、あの病院は生き物のように息を潜めた。

医師になって間もない頃、大学の関連で地方の精神病院に当直へ出されていた。昼間はただ古びているだけの建物が、夜になると別の構造を持ちはじめる。湿気を含んだ廊下は音を吸い込み、壁の染みは地図のように広がっている。L字型の本館と、その先に継ぎ足された新館。私はLの角から伸びた事務棟二階の当直室にいた。

構造は頭に入っているはずだった。短辺を抜け、長辺を進み、新館へ至る。ただそれだけの単純な経路だ。

その晩、ナースから内線が入った。新館の患者が急変したという。時計は二時少し前。行きたくないという感情が、喉元までせり上がった。だが、医師が夜の呼び出しを拒む理由はない。懐中電灯を持ち、闇に沈んだ廊下へ出た。

本館は消灯していた。ナースステーションの灯りだけが遠くで浮かんでいる。短辺を抜け、長辺へ足を踏み入れた瞬間、背中の皮膚が粟立った。

足音が、重なった。

私の革靴が床を踏む音のすぐ後に、もう一つ、同じ拍子の音がある。気のせいだと判断した。古い建物だ。反響、配管、空気の収縮。いくらでも説明はつく。

立ち止まる。

一拍遅れて、もう一つの足音も止まった。

説明は、そこで役に立たなくなった。

呼吸を整え、再び歩き出す。今度は早足に変える。足音も同じように速くなる。振り返る衝動を抑えたまま、廊下の中央で足を止めた。

患者が徘徊しているのだと、自分に言い聞かせる。そうでなければならない。私は医師だ。正体のわからないものに怯える立場ではない。

意識的に、振り返った。

誰もいない。

長い廊下の両側に、木製の引き戸が等間隔に並ぶ。どの戸も閉じられ、隙間からの光もない。静まり返った空間が、こちらを見ているだけだった。

そのとき、白衣の裾が後ろへ引かれた。

確実な力だった。布地が指先でつままれ、止められる。転びかけた身体をこらえ、ゆっくりと首だけを動かした。

廊下の壁際に、老婆が立っていた。

背丈は低い。百三十センチほど。顔は暗闇に溶け、輪郭しか分からない。目も鼻も判別できないのに、手だけが異様にはっきりしている。皺の深い、骨ばった手。その指が、私の白衣をつまんでいる。

「部屋に戻ってください」

医師としての声が、反射的に出た。老婆は動かない。ただ、立っている。

やがて指が離れた。老婆は最も近い引き戸へ身体を向ける。戸は閉じたままだった。それでも、彼女は戸口に吸い込まれるように消えた。

音はしなかった。あの病院の木戸は、どれも必ず「ガラリ」と鳴る。深夜ならなおさらだ。だが、その晩、何も鳴らなかった。

新館での処置は問題なく終わった。患者は落ち着き、ナースも特に異常を報告しない。私は事務棟へ戻れず、新館のソファで朝を待った。

後日、カルテを洗った。身長百五十センチ以下の女性患者はいない。徘徊歴のある者もいない。あの時間帯、引き戸の開閉を記録した看護記録も存在しない。

合理的な説明は、いくつも思いつく。疲労、暗示、夜間せん妄。精神科医として、それらを否定する材料はない。

それでも、あの感触だけは説明できない。

布をつまむ力の強さ。足音の一拍の遅れ。

あれは、私が振り返ったから、そこにいたのだと今は思っている。

振り返らなかった場合、どうなっていたのか。

あの廊下は、いまも同じ構造のままだと聞く。

そして私は、夜道で背後に気配を感じても、決して振り返らないことにしている。

誰かが一拍遅れて足を止めても、確かめない。

確かめた者だけが、あの手に触れられる気がするからだ。

[出典:投稿者「通りすがりの名無し ◆4ifQ3KdE」 2014/03/29]

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