医師になって最初の数年、あれは……自分の中でずっと蓋をしていた記憶だ。
いま某県で開業医として平穏にやっているが、あの頃は大学の関連で、とある精神病院に定期的に当直に出されていた。
夜勤といっても、滅多に何も起こらないはずだった。けれど、あの病院だけは、夜の帳が下りると空気がねばつくようで、どこか別の次元に迷い込んだような感覚に包まれた。誰にも相談できず、誰にも話さずにいたが、いくつか奇妙なできごとがあって、もういい加減吐き出したいと思う。
まず、構造から説明しておく。
全体がL字型をしており、長辺の先端に新館がくっついている形だった。
当直室はLの角から突き出るように延びた事務区画の二階にある。
古い建物で、どこも傷んでいた。床板は浮き、壁紙は湿気で剥がれ、配管はときおり呻くように鳴った。
特に夜は、本館も事務棟もほぼすべての照明が落とされ、唯一ナースステーションだけが光を灯していた。
当直のときは、この闇の回廊をひとりで移動しなければならなかった。
ある晩のことだ。
深夜二時を少し回った頃、新館の患者が具合を悪くしたとのことでナースから呼び出しを受けた。
嫌だった。正直言って、心の底から行きたくなかった。
けれど、医者だ。行かないわけにはいかない。
電灯一つない廊下を、懐中電灯片手に歩き出した。L字の短辺を抜けて、長辺の廊下を通り、新館へ向かうルート。
学生時代の学舎を思わせる、木製の引き戸が等間隔に並ぶ。中はすべて病室。今夜は皆、寝静まっているはずだと自分に言い聞かせ、早足で進んだ。
すぐに、奇妙な違和感が身体を刺した。
足音が、二つあった。
はじめは気のせいだと思い込もうとしたが、自分の歩調と重なる音が、確かにある。
しかも、自分が立ち止まると、相手の足音も一拍遅れて止まる。
皮膚の奥から冷気が這い出してくるようだった。
なのに、頭の中ではやけに冷静に「リアルひぐらしの鳴く頃にだ……」などと、ふざけた思考が浮かんだのを覚えている。
恐怖に追い立てられ、小走りに変えた。だが、足音もそれに合わせるようについてくる。
呼吸が乱れ、喉が焼けるように痛む。
ついには堪らず、廊下の途中で立ち止まった。
振り返るか、振り返らないか。
この世のすべてが、自分の後ろに集約されているような錯覚に陥った。
「患者かもしれない」
その一言を、自分に強制的に注入して、意を決して振り返った。
誰もいない。
視線を左右に滑らせても、暗闇が揺れるばかりだった。
静寂というより、空間ごと沈黙していた。
全身の関節という関節が、わずかに震えていた。逃げたかった。今すぐ明かりのある新館へ。
その瞬間だった。白衣の裾が、ふいに後ろへ引かれた。
走ろうとしたのに、引っかかれて足が止まる。
一瞬、脚がもつれて転んだかと思った。だが違う、何かが掴んでいた。
時間が凍りついたように感じられた。頭の中で秒針が跳ねるように「逃げろ」と鳴り響く。
動けない。視界が狭まり、頬の筋肉が硬直する。
ゆっくり、首だけで振り返った。
視界の端、廊下の壁際。
何かが、立っていた。
背丈は百三十から百四十センチ程度。信じられないほど小柄な老婆。
顔の輪郭が、あいまいにしか見えなかった。目鼻の判別がつかない。
でも、手ははっきりと見えた。しわくちゃで、力強く、自分の白衣の裾をつまんでいた。
「部屋に戻ってください」
口から出た言葉が、自分のものとは思えなかった。老婆は返事もせず、ただ立っていた。
やがて掴んだ手を離し、引き戸のひとつに消えるように戻っていった。
引き戸の音はしなかった。スリッパの足音も、なかった。
新館へ着いてからも、しばらくは震えが止まらなかった。
処置を終えた後、事務棟に戻ることを考えたが、あの長い廊下をもう一度歩く勇気はなかった。
新館のソファで朝を迎えた。
後日、あの老婆の姿が気になってカルテを調べた。
しかし、身長百五十センチ以下の患者はおらず、ましてやあの晩、引き戸を開けた者も記録されていなかった。
あの病院では、木の引き戸は古くて、どんなに静かに動かしても「ガラリ」と音を立てる。
ましてや深夜の、音のない世界で。
スリッパの音もまた、消えるはずがない。
どうやって、あの老婆は、音もなく自分のすぐ背後に立ったのか。
あの足音は、どこから来たのか。
いまも、あの瞬間を思い出すたび、身体の奥が冷たくなる。
「患者だった」と思い込むことで、なんとか正気を保っている。
けれど、心のどこかで分かっている。
あれは、人じゃなかった。
そして――
あれは、自分が“振り返った”から見えたのだ。
次に“振り返らなかった”ら、どうなるのか……
試す勇気は、いまもない。
[出典:投稿者「通りすがりの名無し ◆4ifQ3KdE」 2014/03/29]