大学三年の春、知人の紹介で裁判所関係の清掃バイトを始めた。
就活の資金が欲しかった。割がいいという一点だけで内容もろくに聞かずに引き受けたのが失敗だったのかどうか、今も判断がつかない。
初日の集合場所は都内の外れにある古い団地だった。朝七時、薄曇り。灰色の外壁はまだ湿っていて、窓の多くが曇りガラスのまま閉ざされている。トラックの脇にはすでに五、六人の男が立っていた。
互いに挨拶もしない。フードを目深にかぶった中年男、軍手をはめたまま煙草を吸う若いの、無精髭の大柄な男。全員が視線を合わせない。現場に向かう前の沈黙というより、何かを思い出さないようにしている空気だった。
仕事内容は単純だ。立ち退き命令が出た部屋に執行官とともに入り、家具も家電も私物もすべて運び出す。正義も悪もない。誰かの生活が終わった場所を、ただ空に戻す作業だ。テレビの家宅捜索のような緊張感はない。ただ、湿った匂いと埃と、残された時間の重さがあるだけだ。
最初の部屋から異様だった。呼び鈴に反応はない。合鍵職人が工具で鍵を壊す。ドアがこじ開けられた瞬間、黒い塊が顔めがけて飛び出した。反射的に身を引く。ばさばさと羽音。ハトだった。何羽も、何十羽も、狭い玄関をかすめて外へ飛び去っていく。羽が頬を打ち、糞の粉が目に入る。
中に足を踏み入れた瞬間、靴底が沈んだ。畳の上に、白灰色の層が十センチ以上積もっている。乾いた糞だ。踏むとざくざくと音がする。部屋全体が白く曇り、引き戸は糞の山に押し上げられて開かない。外して進むと、さらに奥に異様な空間があった。
六畳間の中央に蚊帳が張られている。その中に布団とバケツ。蚊帳の外はすべてハトの領域。鳴き声と羽音が渦を巻く。住人はこの小さな隔離空間で暮らしていたらしい。鳥と共に、いや、鳥に囲まれて。壁には新聞紙が貼られ、窓は内側から板で塞がれていた。
光はほとんど入らない。蚊帳の中の布団だけが、妙に整っていた。そこに誰かが横たわっていた痕跡はあったが、本人はすでにいない。どこへ消えたのか。退去命令の書類だけが机に残っていた。
我々は無言でスコップを動かし、糞を削り、段ボールに私物を詰めた。マスク越しでも匂いが喉に刺さる。作業の最中、ふと視線を感じて振り向くと、押し入れの隙間からハトがこちらを見ていた。住人がいなくなったあとも、ここに残っていたのだろう。あの部屋を誰が先に占有していたのか、判断がつかなかった。
別の日、明らかに反社会的組織の関係者と分かる部屋に入ったことがある。壁に掛けられた額装の墨書、無造作に置かれた木刀、妙に静まり返った空気。押し入れからは刀剣が出てきた。拳銃もあった。慣れているはずのベテランでさえ顔色を変えない。
だが冷蔵庫を開けた瞬間、空気が止まった。棚に五本の瓶が並んでいる。ラベルは市販の海苔の佃煮。中身は違った。透明な液体に浸かった小さな肉片。小指だった。複数本。瓶の側面には日付が書かれている。年月が揃っていない。誰の指なのか、なぜ保管しているのか、説明はない。
作業は中断された。執行官が警察を呼ぶ。私は冷蔵庫の前で立ち尽くしたまま、瓶の中の指がこちらを向いているような錯覚に襲われた。持ち主は行方不明と聞いた。生きているのかどうかも分からない。あの瓶が何を意味していたのか、今も答えはない。
宗教関係の部屋も多かった。教祖の肖像画、びっしり書き込まれた経典、天井から吊るされたお札。床には勧誘チラシが散乱している。風はないのに、紙の端が揺れたことがある。誰かが通ったような微かな空気の動き。振り向いても何もいない。ただ、写真の中の目が妙に生々しく見えた。
だが最も忘れられないのは、死者の部屋だ。強制執行の日、扉を開けると花が置かれていた。畳には赤黒い染みが広がっている。乾いて輪郭だけが残り、その形がどうしても顔に見えた。目の位置、鼻筋、口の開き。見ようとしなければただの染みだ。だが一度顔に見えてしまうと、もう戻らない。
その日は執行が中止された。数週間後、改めて入室することになった。死体はすでにない。遺品を箱に詰め、床を掃く。染みは薄くなっていたが、完全には消えていなかった。ほうきの先がそこをかすめるたび、何かを撫でている感触が残る。
一年後、同じ団地、同じ部屋で再び自殺があったと聞いた。偶然だと言われればそれまでだ。だが現場に入った仲間の一人は、作業中に吐き気を訴えたという。「あの顔が、まだある」と呟いていたらしい。私はその場にいなかった。それでも、あの染みの輪郭を思い出すたび、喉の奥が冷える。
仕事を辞める直前、その団地に三度目の強制執行が入ったという噂を耳にした。新しい住人がいるらしい。若い夫婦だという話もあれば、単身赴任の会社員だという話もある。真偽は分からない。ただ、あの部屋の窓に明かりが灯っていると聞いた。
団地はどこにでもある。コンクリートの箱が積み重なり、隣との距離は壁一枚。だがその壁の向こうで何が積もり、何が保存され、何が染みとして残っているのか、誰も知らない。私たちはただ運び出すだけだ。中身を空にするだけだ。
それでも、完全に空になった部屋を私は見たことがない。掃き清めたはずの床、拭き取ったはずの染み、撤去したはずの写真。次の住人が入る前の無人の空間に立つと、いつも何かが先にいる気配がする。
あれ以来、団地の窓を見ると、どの部屋がまだ中身を抱えているのか考えてしまう。陽だまりの中でテレビを観ている人影の背後に、見えない層が積もっているように思える。
私は清掃員だったはずだ。だが本当に片付けていたのは、部屋だったのか、それとも別の何かだったのか。答えは出ない。団地の前を通るだけで、背中に冷たい層が一枚、増える。
(了)