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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026 オリジナル作品

🚨火曜日の❌️ nc+

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この話を最初に耳にしたのは、ある研修の懇親会だったという。

酒の勢いもあって、誰かが「県立図書館って、閉架書庫が迷路みたいだろ」と軽口を叩いたとき、隣にいた中年の女性職員が、ほんの一瞬だけ箸を止めた。
それから少し間を置き、「そういえば……」と前置きして、誰かから聞いた話として語り始めたのだという。

――十五年ほど前の秋、港町育ちの若い司書が、内陸にある県立図書館へ配属された。
潮の匂いに慣れた身体には、山に囲まれた町の空気は乾きすぎていて、朝晩は喉の奥がひりついたそうだ。
建物は築四十年を超え、外観こそ整っているが、内部は増改築の痕跡がそのまま残っていた。とくに閉架書庫はひどく、床の高さが微妙に違ったり、通路が数度だけ斜めにつながっていたりして、初めのうちは方向感覚が狂うとこぼしていたらしい。

配属初日、彼女は書庫の奥で前任者の私物を引き継いだ。
金属製のブックトラック、縁が擦り切れた革のブックカバー、閲覧記録用の古いノートが数冊。
前任者は同じ研修を受けた先輩司書で、几帳面だが口数が少ない人物だったと聞く。人と話すとき、視線を合わせる直前に、必ず一度だけ長いまばたきを挟む癖があり、それが妙に印象に残っていた、と彼女は後から話していたそうだ。

引き継いだノートをめくったとき、彼女はページの端に小さな印があるのに気づいた。
鉛筆で薄く書かれた×。位置はまちまちで、本文とは無関係に、余白の隅に置かれている。
記録ミスの消し忘れだろう、とその場では深く考えなかったらしい。だが、業務に慣れ、曜日ごとに記録を整理していくうち、妙な偏りが浮かび上がった。
×印は、火曜日の記録にだけ集中していたという。

多い日には三つ、四つ。少ない日でも必ず一つはある。
他の曜日には、どれだけ探しても見当たらない。
彼女はそのことを、誰かに相談しようとしてやめた。理由は分からないが、言葉にした途端、書庫の空気が一段冷えるような気がしたからだ、と後に語っている。

その年の冬が近づいた頃、彼女は閉館後の書庫で残業をしていた。

人の気配は完全に消え、空調の低い唸りだけが規則正しく続いていた。
棚の間を歩いていると、背表紙の隙間に、紙片の白がちらりと見えた。
抜き取ると、そこにも×印があった。インクでも鉛筆でもなく、爪で強く引っかいたような跡だったという。

翌週、別の棚で同じものを見つけた。
さらに次の週も、また別の場所で。
紙片は少しずつ増えていき、集めて机に並べると、数が合っているのかどうか分からなくなるほどだった。
配置を思い出そうとすると、なぜか書庫の奥行きが伸び縮みするような感覚があったらしい。

すべてを回収して管理室に報告すると、当時の館長は首を傾げ、「前任者が神経質だったのでしょう」と言ったという。
そう言い切った直後、言葉を選ぶように一拍置き、「火曜日に何かあったのかもしれないが、詳しくは知らない」と付け加えた。
そのとき、館長の手が、机の縁を無意識に叩いていたのを、彼女は妙にはっきり覚えていると話していたそうだ。

数か月後、彼女は人事異動で別部署へ移った。
前任者の行方を調べることはなく、誰も話題にしなかった。
ただ、引き継いだノートと回収した紙片だけが、自宅の引き出しに残った。
×印の数を数えると、全部で五十七個あったという。

異動してしばらく経った頃から、火曜日になると、理由もなく目が覚めるようになった。
決まって同じ時刻。
胸の奥で、乾いた紙が擦れるような音が一度だけ鳴る。
それが夢なのか、身体の錯覚なのかは分からないが、その瞬間、書庫の冷えた空気を思い出すのだと、彼女は誰かに打ち明けていた。

ある火曜の朝、引き出しを開けてノートを確認した。

数は、五十七のままだった。
だが、閉じようとしたとき、最後のページの端に、覚えのない×が一つ増えているのを見つけた。
鉛筆ではない。あのときの紙片と同じ、爪で引っかいたような跡だった。

それがいつ、どこで付いたのかは、本人にも分からない。
分かっているのは、それ以来、火曜日が来るたび、数を確かめずにはいられなくなったということだけだ。
増えているかどうかではない。
数え直さないと、次に進めないのだ、と。

話を伝え聞いた人間の中には、「それは強迫観念だ」と片付ける者もいたらしい。
だが、最初に語った女性職員は、最後にこう付け加えたという。

「その人、今でも言うんです。あの書庫の奥行きは、どこかでまだ続いている気がするって。
火曜日は、まだ終わっていないんじゃないかって」

その場にいた誰も、続きを求めなかったそうだ。
箸の音だけが、妙に大きく響いていたという。

(了)

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