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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

止まらない手 nw+

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大学三年の夏だった。

蝉の声が空に張り付いて離れないころ、俺はジェンベのサークルにいた。手のひらの皮が剥け、豆が潰れても叩き続けた。音を出すというより、何かを叩き起こしている感覚があった。リズムを合わせるたびに、場の空気がわずかに傾く。あれは練習というより、呼び水だった。

アブさんはその年の六月に入ってきた。

マリ出身だと言った。黒曜石みたいな肌に、やけに白い歯。笑っても目は笑わない。打面に触れる指先が、生き物みたいに跳ねた。俺たちのリズムが直線なら、彼の音は円を描いた。中心がどこにあるのか分からない円だった。

八月の終わり、Nから電話があった。

「今夜、アライさん家行こうぜ」

心霊スポットの名だという。廃墟。山の中。

「アブさんは?」

「呼んでない」

なぜか、連れて行かなきゃいけないと思った。理由はない。ただ、あの人の音が、あの場所でどう鳴るのか知りたかった。

「ゴーストハウス、行く?」

アブさんは少し黙ってから言った。

「嫌だよ。怖いの嫌」

それでも、最終的には来た。Nの車に揺られて、男五人。全員ジェンベを抱えていた。アブさんだけは、太鼓ではなく、布にくるんだ細長い包みを持っていた。

「何それ」

「森に返すもの」

それ以上は言わなかった。

廃墟は、草に飲み込まれかけたコンクリートの塊だった。窓は抜け、壁は黒ずみ、月明かりが内部を透かしていた。風はなかったのに、どこか湿った匂いがした。

アブさんは廃墟を見て、首を横に振った。

「中、入らない。森のほう、よくない」

そう言って、ひとりで林の中に消えた。

残った俺たちは、廃墟の前に円になって座った。誰が言い出したのか分からない。

「叩こうぜ」

最初は軽く。手慣らしのリズム。やがて、誰かが裏拍を強めた。別の誰かが追いかける。音が重なり、ずれ、絡み合う。俺は叩きながら、違和感を覚えた。

止める合図が、ない。

いつもなら、誰かが笑って崩す。疲れた、と言う。だが、その夜は違った。目を上げても、誰もこちらを見ない。全員が打面だけを見ていた。叩く、叩く、叩く。速く。強く。皮膚が焼けるように熱い。

林の奥で、何かが揺れた気がした。

風ではない。草でもない。ただ、暗がりの形がわずかに変わった。

「……見えるか?」

誰が言ったのか分からない。俺は頷いた気がする。何を見たのかは、今も説明できない。布のようなものがあった。高さだけが、人間と同じくらいだった。

左右に、ゆっくり揺れていた。

声が聞こえた気もする。

怒っている、と。

帰れない、と。

だが、それが言葉だったのか、自分の頭の中の音だったのかは分からない。

叩くのをやめようとした。

手が止まらなかった。

自分の意志とは別のところで、腕が動いていた。叩かなければいけない気がした。何かが近づいてくるなら、叩き続けなければいけない。なぜそう思ったのか分からない。

気づいたとき、音は止んでいた。

林からアブさんが戻ってきた。包みは、もう持っていなかった。

「もういい」

それだけ言った。

誰も質問しなかった。

帰りの車内で、誰もあの揺れる影の話をしなかった。まるで、見なかったことにしたように。

数日後、アブさんはサークルに来なくなった。

Nに聞くと、首をかしげた。

「誰だよ、それ」

冗談だと思った。だが、KもIも同じ反応だった。マリ出身の年上の留学生。黒い肌。円を描くリズム。誰も思い出せないと言う。

録音していたはずのデータを再生した。

静寂だった。

いや、よく聞くと、かすかに一つだけ音がある。

単調なリズム。

俺の打ち方だった。

あの夜、五人で叩いていたはずなのに、音源には俺の音しか入っていない。

しかも、途中からテンポが変わっている。自分では覚えのないリズムに移っている。俺はそんな叩き方を知らない。

動画も確認した。

円になって座る俺たち。

だが、空いている場所が一つある。誰かが座っていたはずの位置が、最初から空白のままだ。

今でも、風のない夜に、無性に手がうずく。

太鼓を出していないのに、手のひらが熱を持つ。

叩いていないのに、膝の上で指が動いている。

ときどき、録音データを再生する。

俺のリズムの背後で、ほんの一瞬だけ、別の拍が重なることがある。

合わない拍だ。

俺はそれに合わせた覚えがない。

それでも、音は続いている。

あの夜から、一度も途切れていないかのように。

[出典:513:本当にあった怖い名無し:2011/02/24(木) 17:45:21.72 ID:Aq1qWMQJ0]

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