大学三年の夏のことだ。
まだ空に蝉の声が響いていたころで、俺はジェンベのサークルに身を置いていた。
手のひらに豆を潰しながら、太鼓を叩き続ける日々は、どこか儀式じみていた。
まるで、自分がなにかを呼び寄せているような気がしていた。
アブさんが現れたのは、そんなときだった。
黒曜石みたいに深い肌と、やけに白い歯。笑うと、口元から異国の湿気が滲み出るような気がした。
マリ出身だという。名前は長くて舌を噛みそうだったから、みんな「アブさん」と呼んだ。
ひとりだけ二十四歳で、俺たちより年上だったこともあって、自然と敬語を使っていた。
ジェンベがうまいなんてもんじゃなかった。打面に触れる指が、まるで生き物だった。
俺は内心、アブさんのことを「太鼓の化け物」と呼んでいた。
アフリカの乾いた空気が、彼の演奏を通してこの日本に染みこんでくるみたいで、
言葉にならないざらつきが、胸に引っかかった。
あれは、八月の終わり。
サークル仲間のNから電話が来たのは、夜の七時を少し回ったころだった。
「今夜、アライさん家行こうぜ。就活始まると、もうみんな揃わないだろ?」
アライ?誰だ?と聞き返すと、
「心霊スポット。お前知らんの?」「アブさんは?」「呼んでない」
それを聞いて、俺はなぜかニヤリとした。
アブさんが、心霊スポットでどんな顔をするか見てみたくなった。
「ゴーストハウス。行く、オーケー?」
電話口の向こうで、アブさんは笑いもせず答えた。
「嫌だよ。私、怖いの嫌。レポートやる」
「いや、アブさん必要。マジで、頼む。君が来ないと……成り立たない」
なんの“成り立ち”なのか、自分でも分からなかったが、
そのときの俺は、どうしてもアブさんを連れて行きたかった。
結局、夜九時すぎ。
Nの車に揺られて集まったのは、N、俺、アブさん、K、Iの五人。
全員男。みんなジェンベを抱えていた。唯一、アブさんだけは、
何やら布にくるまれた妙な包みを持っていた。
「なにそれ?太鼓じゃないの?」
Kが聞いた。
アブさんは、にやりともせず、ポツリと呟いた。
「ファントム、危ないよ。除霊する。遠くにやる」
「え、除霊?」
意味が分からなかった。除霊って、神主とか坊さんの仕事じゃないのか?
それを、アフリカ人のイスラム教徒がやると?
「アブさん、イスラム教だろ?精霊とか信じてんの?」
「私はバマナの血。マリの秘密サークル、入ってる。シャーマンの家族」
答えになっているようで、なっていない。
でも、妙に説得力があった。アブさんの目が、黒い水溜りのように深く静かだったからだ。
到着したのは、山中にぽつんとある廃墟。
草に覆われたコンクリートの塊が、月明かりの下であえいでいた。
湿った風にまじって、どこか酸っぱい匂いが鼻を刺す。
アブさんは「森に入る」とだけ言って、包みを抱えたまま、木々の間に消えていった。
俺たちは、廃墟の前でジェンベを構えた。
「アブさんの言う通り、叩けば精霊が来るんだろ?」
そう笑いながら、俺たちはリズムを合わせて叩き始めた。
最初は緩やかに、やがて獣の腹を殴るように、だんだんと速く強く。
いつからだったか、木々の奥から“それ”が来た。
ぶわ、と風が吹いたわけでもない。
ただ気配だけが、森のほうから滲み出してきた。
やがて見えた。
仮面。逆さにした櫛に、無理やり目と鼻をくっつけたような、それは歪んでいた。
身体は、テーブルクロスをかぶったかのようなボロ布で覆われていた。
左右に、ゆら……ゆら……と不規則に揺れて、こちらに歩いてくる。
「……あれ、アブさんじゃねえか?」
Iがそう呟いた。たしかに、体格は似ていた。
けれど、直感的に、違うと分かった。
「あれ、ントモだ!」
Nが叫ぶ。俺たちも続く。
「ントモー!ントモー!」
それは止まらなかった。近づいてきて、廃墟の前に立った。
「私、ントモ……。ントモ怒てるよ……。ここ、死んだの人いる……ダメよ……帰れない……」
声は男とも女ともつかぬ、乾いた音だった。
それが、急に森のほうを振り返り、奇妙に捻った体のまま、ふらふらと戻っていこうとする。
「行くよ……死んだの人……ントモと帰るよ……たくさん帰るよ……」
その背中が木々の影に飲み込まれるまで、誰もジェンベを叩くのをやめられなかった。
そして──
またガサガサと、草の音。
布の包みを持ったアブさんが、森の中から出てきた。
「もう大丈夫よ。死んだの人、全部帰った。ここ、もう大丈夫よ」
俺たちは、へたりこんでいた。汗まみれの手が、ジェンベの皮を濡らしていた。
それからは、拍子抜けしたみたいな夜だった。
廃墟を探検したけれど、怖いよりも呆けた気分のほうが勝っていた。
まるで、自分たちが“何か”を出し切ってしまったような。
解散してから数日。
アブさんがサークルに顔を出さなくなった。
何度電話しても出ない。連絡もつかない。
寮の掲示板に、名前が貼り出されていた。「留学生、帰国のため退寮」とだけ。
おかしいと思って、事務局に聞いた。
でも「そんな名前の留学生は在籍していなかった」と言われた。
ありえない。
確かに俺たちは、アブさんと過ごした。
一緒に太鼓を叩き、笑い、語った。
でも──
録音していたはずのジェンベの音源には、音が入っていなかった。
廃墟の前で、何も叩いていない静寂だけが録れていた。
あの夜、ジェンベを叩いていたのは、本当に俺たちだったのか?
アブさんは、どこから来て、どこに消えたんだろう?
いや──最初から、存在していなかったんじゃないか?
それならば、俺たちは一体、あの夜、何を見て、何を信じたんだろう?
いまでも、時折、無性に太鼓を叩きたくなる夜がある。
そんなときは決まって、風のない夜に、森の奥から……ふらり、ふらりと“あれ”が来る気がする。
俺たちは、何かを“呼び寄せてしまった”んだと思う。
あの晩、俺たちのジェンベに、応じてしまった“何か”を──。
[出典:513:本当にあった怖い名無し:2011/02/24(木) 17:45:21.72 ID:Aq1qWMQJ0]