大学三年の夏だった。
蝉の声が空に張り付いて離れないころ、俺はジェンベのサークルにいた。手のひらの皮が剥け、豆が潰れても叩き続けた。音を出すというより、何かを叩き起こしている感覚があった。リズムを合わせるたびに、場の空気がわずかに傾く。あれは練習というより、呼び水だった。
アブさんはその年の六月に入ってきた。
マリ出身だと言った。黒曜石みたいな肌に、やけに白い歯。笑っても目は笑わない。打面に触れる指先が、生き物みたいに跳ねた。俺たちのリズムが直線なら、彼の音は円を描いた。中心がどこにあるのか分からない円だった。
八月の終わり、Nから電話があった。
「今夜、アライさん家行こうぜ」
心霊スポットの名だという。廃墟。山の中。
「アブさんは?」
「呼んでない」
なぜか、連れて行かなきゃいけないと思った。理由はない。ただ、あの人の音が、あの場所でどう鳴るのか知りたかった。
「ゴーストハウス、行く?」
アブさんは少し黙ってから言った。
「嫌だよ。怖いの嫌」
それでも、最終的には来た。Nの車に揺られて、男五人。全員ジェンベを抱えていた。アブさんだけは、太鼓ではなく、布にくるんだ細長い包みを持っていた。
「何それ」
「森に返すもの」
それ以上は言わなかった。
廃墟は、草に飲み込まれかけたコンクリートの塊だった。窓は抜け、壁は黒ずみ、月明かりが内部を透かしていた。風はなかったのに、どこか湿った匂いがした。
アブさんは廃墟を見て、首を横に振った。
「中、入らない。森のほう、よくない」
そう言って、ひとりで林の中に消えた。
残った俺たちは、廃墟の前に円になって座った。誰が言い出したのか分からない。
「叩こうぜ」
最初は軽く。手慣らしのリズム。やがて、誰かが裏拍を強めた。別の誰かが追いかける。音が重なり、ずれ、絡み合う。俺は叩きながら、違和感を覚えた。
止める合図が、ない。
いつもなら、誰かが笑って崩す。疲れた、と言う。だが、その夜は違った。目を上げても、誰もこちらを見ない。全員が打面だけを見ていた。叩く、叩く、叩く。速く。強く。皮膚が焼けるように熱い。
林の奥で、何かが揺れた気がした。
風ではない。草でもない。ただ、暗がりの形がわずかに変わった。
「……見えるか?」
誰が言ったのか分からない。俺は頷いた気がする。何を見たのかは、今も説明できない。布のようなものがあった。高さだけが、人間と同じくらいだった。
左右に、ゆっくり揺れていた。
声が聞こえた気もする。
怒っている、と。
帰れない、と。
だが、それが言葉だったのか、自分の頭の中の音だったのかは分からない。
叩くのをやめようとした。
手が止まらなかった。
自分の意志とは別のところで、腕が動いていた。叩かなければいけない気がした。何かが近づいてくるなら、叩き続けなければいけない。なぜそう思ったのか分からない。
気づいたとき、音は止んでいた。
林からアブさんが戻ってきた。包みは、もう持っていなかった。
「もういい」
それだけ言った。
誰も質問しなかった。
帰りの車内で、誰もあの揺れる影の話をしなかった。まるで、見なかったことにしたように。
数日後、アブさんはサークルに来なくなった。
Nに聞くと、首をかしげた。
「誰だよ、それ」
冗談だと思った。だが、KもIも同じ反応だった。マリ出身の年上の留学生。黒い肌。円を描くリズム。誰も思い出せないと言う。
録音していたはずのデータを再生した。
静寂だった。
いや、よく聞くと、かすかに一つだけ音がある。
単調なリズム。
俺の打ち方だった。
あの夜、五人で叩いていたはずなのに、音源には俺の音しか入っていない。
しかも、途中からテンポが変わっている。自分では覚えのないリズムに移っている。俺はそんな叩き方を知らない。
動画も確認した。
円になって座る俺たち。
だが、空いている場所が一つある。誰かが座っていたはずの位置が、最初から空白のままだ。
今でも、風のない夜に、無性に手がうずく。
太鼓を出していないのに、手のひらが熱を持つ。
叩いていないのに、膝の上で指が動いている。
ときどき、録音データを再生する。
俺のリズムの背後で、ほんの一瞬だけ、別の拍が重なることがある。
合わない拍だ。
俺はそれに合わせた覚えがない。
それでも、音は続いている。
あの夜から、一度も途切れていないかのように。
[出典:513:本当にあった怖い名無し:2011/02/24(木) 17:45:21.72 ID:Aq1qWMQJ0]