あの出来事を、ずっと誰にも話せなかった。
話せば軽くなると思っていたのに、逆に重くなる気がして、口を閉ざしてきた。けれど最近、どうしても一つだけ確かめたいことがある。だから書く。
あのコンビニは、今年の春にオープンしたばかりだった。大通りの裏手、高級マンションに囲まれた立地。悪くはないが、客は結局、昔からある店に流れていった。それでも私は通った。深夜一時を過ぎると、店内で作る弁当が半額になる。少し高いが、確かに旨かった。
二ヶ月ほど経った頃、深夜に入ったのがNさんだった。
声が大きく、よく笑い、やたらと丁寧。試飲のコーヒーを三杯も渡しながら、真剣に話を聞く。寝ている客にジャンバーを掛け、「四時に起こしますからねー」と言う。常識外れだが、悪意は一切ない。人を温めるような男だった。
ただ、妙なことが一つあった。
無人のレジに向かって、Nさんがときどき会話をしていた。
最初は独り言だと思った。だが視線の高さが、確実に“誰か”に向いている。私が「今の女性は?」と訊ねた夜、Nさんは泣きそうな顔で「すみません」と謝った。そこには、誰もいなかった。
その頃から、店の空気が変わった。
深夜の自動ドアの外に、立ち止まる人影が増えた。だが入ってこない。ガラス越しに、ただ店内を見ている。顔はよく見えない。赤い靴だけが妙に目についた夜もあった。
三ヶ月目のある晩、私は立ち読みをしていた。
Nさんの声が、その日はやけに小さかった。「いらっしゃいませ」が、どこか濁っている。呂律も回らない。だが私は帰らなかった。正直に言えば、何か起こるのではないかと、期待していた。
新聞を束ねていたとき、ドアが開いた。
客が入ってきた。そう思った。
だが足音は一つなのに、影が二つあった。私は顔を上げられなかった。レジの向こうで、Nさんが誰かに向かって笑っている。
「今日は静かですね」
返事は聞こえない。だが会話は続いている。
次の瞬間、Nさんの声が、私のすぐ背後から聞こえた。
「お客様、まだいらっしゃったんですか」
振り向いた。そこにNさんが立っている。
レジを見ると、そこにもNさんがいた。
同じ制服、同じ顔。ただ、レジのNさんは、こちらを見ていない。目の前の“誰か”に、丁寧に頭を下げている。
私はその場から動けなかった。
背後のNさんが、私の肩越しにレジを見て、小さく言った。
「増えちゃいましたね」
何が、と訊けなかった。
気づけば外は白み始めていた。レジには一人のNさんしかいない。私の背後も空だ。すべて夢だったのかもしれない。だが、床には二つ分の足跡が残っていた。濡れているのは、片方だけだった。
それからNさんは壊れていった。
「いらっしゃいませ」が「うらっめっしゃー」に変わり、誰もいないレジに向かって頭を下げる回数が増えた。客は減り、店長が呼ばれ、家族が迎えに来た。その日を最後に、Nさんは店から消えた。
私はしばらく通い続けた。
深夜のガラスに、自分の後ろ姿が映る。だがときどき、反射の中に、もう一人立っている。振り返っても、誰もいない。
ある日、駅でNさんにぶつかった。
「すみません」と眠そうに笑う。健康そうだった。少し太っていた。私は安堵した。すべて過労だったのだと、そう思いたかった。
けれど別れ際、Nさんは振り向いて、こう言った。
「最近、あの店に行きました?」
私は行っていないと答えた。
Nさんは、ほっとしたように笑った。
「よかった。見られると、増えるんで」
何が、と訊き返す前に、電車のドアが閉まった。
それから、私は一度もあの店に近づいていない。
だが夜中、目を閉じると、レジの向こうで頭を下げるNさんが見える。声は濁っていない。はっきりと、こちらを向いている。
「いらっしゃいませ」
そう言われるたび、私は思い出す。
あの夜、私は立ち読みをしていた。
何か起こることを、期待して。
あなたは、どうだろう。
この話を、最後まで読んだ。
今、画面のこちら側で、私の言葉を見ている。
――あのとき、レジに立っていたNさんは、何人だったと思うか。
私は、数えきれていない。
そして今も、どこかで誰かが、こちらを見ている。
「いらっしゃいませ」
その声が、あなたの背後から聞こえないと、どうして言い切れるだろう。
[出典:302 :本当にあった怖い名無し:2013/12/10(火) 00:41:46.73 ID:3NCHifyJ0]