これは、俺自身の体験じゃない。けど、ふと思い出したから書き留めておく。
話の主は友人だ。
当時、俺も近くにはいたけれど、現場には居合わせてない。ただ、後から話を聞いただけの傍観者だ。
学生時代、暇さえあればバス釣りにハマっていた時期があった。講義をサボったり、休みの日はほとんど竿を持って川に出てた。近場に有名なバス釣りスポットとされる湖もあったけど、当時の俺たちはその手前の、あまり目立たない川で釣るのが常だった。ちなみに、あんまり知られていないが、バスは川にも普通にいる。
その日も、例の川へ足を運んだ。そこは川幅が狭く、ほんの少し力を入れてルアーを投げれば、対岸まで簡単に届くような場所だった。とはいえ、釣れるポイントは限られていて、橋のそばなんかは特に人気がある。俺たちが陣取った場所も例に漏れず、両岸にはすでに数人の釣り人が入っていた。
一応、対岸の正面に人が来ないように気をつけながら、自分の足元や正面の岸を狙って釣り歩く。そこで少しずつ移動しながら釣っていたわけだけど――ここから先は、あとで聞いた話だ。
俺はそのとき車に戻っていて、ロッドか何かを取りに行っていた。つまり、肝心の場面は見ていない。友人だけがその場にいた。
状況としては、彼が釣りを続けているうちに、うっかり対岸の釣り人二人組の正面あたりにまで近づいてしまったらしい。気まずさもあってか、もと来た道を戻ろうかと考えていたそのとき、ルアーを水面から引き上げたところで、事件は起きた。
突然、対岸の二人が大声を上げたのだ。
「うわーっ!!」
「おいっ、そこだ!!足元!!」
何かに驚いた様子で、こちらを指差している。友人はてっきり「足元にデカバスがいる!」とでも教えてくれているのかと思い、水草の影を目を凝らして探し始めた。
けれど、次の叫び声で空気が変わった。
「ダメだ行くな!!」
「逃げろ!!早く!!」
“逃げろ”…?その言葉で、友人の頭に浮かんだのは“マムシ”。なるほど、それなら確かにヤバい。そう思った彼は、岸から少し距離をとって土手の上へと避難した。
だが、驚いたのはそのあとだった。
なんと、対岸の二人までが慌てて土手に駆け上がり、そのままこちらへ走ってきたのだ。顔面蒼白で、完全にパニック状態。なにか、とんでもないものを見たとしか思えない様子だった。
ようやく合流した彼らは、開口一番こう叫んだ。
「今の見たか!?化けもんだよ、アレ!!」
どうやら、友人が釣っていたまさにその場所の足元、葦の茂みの手前で“何か”が起きていたらしい。
彼らによれば、水面が「ボコッ」と不自然に波立ち、そこからバレーボールほどの大きさの黒い塊が、ゆっくりと顔を出したのだという。最初は苔まみれのボールか何かかと思ったらしい。しかし、それは次第に回転しながら、ある“形”を見せてきた。
それは、人間の顔だった。
真っ黒に濡れた長髪がまとわりつき、ぬめりとした質感。白く濁った目だけが、水面に浮かび上がっていた。その“顔”がゆっくりとこちらを向きながら、じわりと岸の方へ一メートルほど滑るように近づき――すっと水中に沈んでいった。
その方向に友人がいた。だからこそ、彼らはあれほどまでに大声を上げたのだ。
一通り話すと、その二人は「もう無理だ」と言って道具をまとめ、そそくさと引き上げていった。東京から来たという彼らは、その後すぐに帰ってしまった。
俺たち自身は何も見ていない。ただ話を聞いただけだ。それでも、あまりに異様で気味が悪かったせいで、それっきり、俺たちはその場所に近づくことはなかった。
あの川は、今やバス釣りの有名スポットに注ぐ一級河川の一部だ。だが、あの“顔”がいたというその一帯だけは、ずっと俺たちの中で“空白地帯”として残っている。
[出典:630 名前:逝く雄 ◆jan/9fR2 投稿日:02/02/28 10:54]