ある知人から聞いた話を、あたかも自分の身に起きた出来事のように語る。
だが、いま振り返っても、あの夜の記憶はどうにも曖昧で、他人事のようでもあり、同時に皮膚の下に焼き付いて離れないものでもある。だからこうして語るとき、私はまるで自分が体験者であったかのように錯覚してしまう。
――その日、私は東京にいた。
地方に住む私にとって、上京などそう頻繁にあるものではない。仕事の用事で呼ばれ、朝から慌ただしく駆け回り、昼過ぎにはすっかり片がついた。帰るには中途半端な時間。せっかくだから一泊して明日帰ろうと考え、スマホで適当に探した安めのビジネスホテルへ向かった。
チェックインを済ませたのは夕方。狭い部屋だが、ベッドと小さな机があれば十分だった。荷物を置いて、街に出ようかとも思ったが、不思議と体が重い。人混みに揉まれた疲れだろうか。結局その日は早々にシャワーを浴び、ベッドに横になった。
眠りはすぐ訪れるはずだった。だが、夜更け、異様な音で目が覚めた。
壁を叩きつける鈍い衝撃音。ドン、ドンと規則性のない打撃。続いて、子供の泣き声のような甲高い響き。しかも、ただ泣いているのではない。誰かに喉を掴まれたように、必死で搾り出すような悲鳴だった。そして、何かを無理やり折り曲げる、金属の軋むような不快な音も混じっていた。
私は布団の中で耳を塞ぎ、必死に眠ろうとした。
だが、音はますます大きくなり、壁のすぐ向こう側で誰かが暴れているとしか思えない。やがて耐え切れなくなり、意を決して部屋を出た。エレベーターでフロントへ降り、カウンターにいた若い従業員に「隣がうるさくて眠れない」と告げた。
従業員は一瞬驚いたように私を見たが、すぐに「確認してまいります」と奥に引っ込んだ。電話を掛けている様子が遠くから聞こえ、数分後には笑顔を作って戻ってきた。
「お部屋の方には私から直接話をしておきますので、ご安心ください」
そう言われれば、こちらも納得するしかない。私は礼を言って再び部屋に戻った。
だが安堵は束の間だった。
ベッドに横たわって十分も経たぬうち、ドアが激しくノックされた。ドンドンドン、と乱暴に。胸が凍りついた。もしかして隣人が逆上して乗り込んできたのか。恐る恐る覗き穴を覗くと、そこに立っていたのはフロントの従業員だった。先ほどとは打って変わり、顔は真っ青で額に汗がにじんでいた。ドアを開けるなり、息を切らしながら言った。
「お客様、申し訳ありませんが……別のお部屋に移ってください。お願いします!」
その異様な迫力に押され、私は何も言えなかった。ただ無言で荷物をまとめ、彼に案内されるまま上階の端の部屋へ移った。そこは静まり返っていた。壁を叩く音も、子供の泣き声も、何ひとつ聞こえない。安心と疲労に包まれ、私はそのまま深い眠りに落ちた。
翌朝。
チェックアウトの際、昨夜のことを尋ねた。カウンターの若い従業員は一瞬言葉を失い、やがて奥へ消えた。代わって現れたのは、年配の男性。背筋を伸ばし、硬い表情で深々と頭を下げた。
「昨夜は大変申し訳ありませんでした。完全にこちらの手違いでございます。そのため宿泊料は無料で結構です」
どういう手違いかと問い詰めても、彼は頑として答えなかった。繰り返される「手違いです」の一点張り。まるでそれ以上は口にできないというように。私は仕方なく諦め、宿泊料の返金も受け取らずにホテルを後にした。
だが、帰宅して数日経っても、疑問は消えない。
あの部屋で聞いた不気味な音は何だったのか。
隣室に泊まっていたのは誰だったのか。
なぜあの従業員は、あそこまで必死に私を部屋から遠ざけようとしたのか。
その答えは今も分からない。
ただひとつだけ確かなのは、東京を離れた今でも、夜更けにふと耳の奥で響くのだ。あの壁を叩く乾いた音が。――ドン、ドン、と。
そして、そのたびに思う。あの時、従業員が間に合わなかったら、私はいまここで語ってはいなかったのではないかと。