アルバイトの面接なんて、気楽な気持ちで行くものだと思っていた。
だが、その日案内されたのは、古い木造の事務所。雨で湿った木の匂いが鼻にまとわりつき、床は少し沈むように軋んだ。
机の向こうで、面接官の男が無表情に履歴書を眺めたあと、口を開いた。
「ひとつだけ、ウチの会社には特殊な規則がある」
そう言って、印刷のかすれた紙を机の上に置く。
そこには一行、黒々とした文字が並んでいた。
――『いつ如何なる時でも、ヘルメットを脱帽してはいけない』
意味がわからなかった。
作業中はもちろん、昼休みや休憩中も? トイレに行くときも?
思わず笑いそうになったが、面接官は笑っていなかった。
その沈んだ声で理由を話し始めた。
数年前、別の現場で起きた事故。
作業員がノーヘルで鉄筋を扱っていたとき、上階から一本の鉄筋が垂直に落ちてきた。
それは空気を裂くようにまっすぐ降下し、男の頭の天辺から突き刺さった。
頭蓋を貫き、喉も胸も腹も貫通して、鉄筋は土間に深々と立ったという。
面接官の言葉は、妙に具体的で、耳にこびりつく。
彼は少しも感情を混ぜず、ただの事実のように続けた。
――だがその場にいた作業員たちは、誰一人として、その男が死んだことに気づかなかった。
まるで立っているだけの人間を、景色の一部と錯覚していたらしい。
「アイツ、なに突っ立ってんだ」
それが、最後に浴びた言葉だったという。
死体のまま立っている男は、昼まで、夕方まで、そして終業時刻まで放置された。
帰り支度をするころになって、ようやく誰かが異変に気づき、警察に連絡した。
すでに血は鉄筋を伝い、地面にこびりついていたそうだ。
「それ以来、ウチでは現場から出るまで絶対にヘルメットを外すな、という決まりになった」
面接官はそこで話を切り、書類にサインを促した。
何かが喉に引っかかるような違和感を覚えたが、結局そのまま契約した。
初出勤の日、支給されたヘルメットをかぶると、締めつけられるような圧迫感があった。
夏の熱気のなか、額から汗が流れ落ちる。
現場は高層ビルの新築工事で、鉄骨と足場の間を潜り抜けながらの作業。
昼になっても、誰もヘルメットを外さない。
弁当を食べるときも、タバコを吸うときも、あの白い帽子が頭に貼りついたままだった。
数日も経つと、その異様さにも慣れてしまった。
だが、ある日の午後、奇妙なことがあった。
資材置き場の隅に、一人の男が立っていた。
背中を向けたまま、動かない。
声をかけようと近づいたが、別の作業員が肩を叩いてきた。
「いいから行け」
なぜか、目を合わせようとしない。
言われるまま別の作業に戻ったが、気になって後ろを振り返ると、その男はまだ立ち尽くしていた。
翌朝、現場に来ると、資材置き場のあたりに黄色い規制テープが張られていた。
監督は何も説明しなかったが、作業員たちの間で小声が飛び交った。
「……また、出たんだ」
「今回は……あの時みたいじゃないか」
聞こうとしても、誰も続きを話さなかった。
その日から、現場の空気は重くなった。
誰もが必要以上にヘルメットを深くかぶり、互いに目を合わせなくなった。
汗が額から顎へ、顎から首筋へと流れ落ち、服の中で冷たくなる。
一度、トイレの鏡で自分の顔を見たとき、ヘルメットの縁からのぞく目が、ひどく他人のものに見えた。
二週間後、現場は急に中止になった。
理由は告げられなかった。
解散のその日、事務所でヘルメットを外そうとした瞬間、監督が飛び上がるように止めた。
「ここを出るまで外すな」
その声が震えていた。
事務所を出て、通りを渡った瞬間、ようやく外す許可が出た。
外した途端、頭の皮膚が急に軽くなり、風が触れた。
だが、なぜか頭頂部が冷たく湿っているように感じた。
触れてみても、指は乾いていたのに。
あの現場の作業員の何人かは、別の現場でも同じ会社と仕事を続けているらしい。
だが、偶然にも、再び彼らと会うことはなかった。
今もどこかで、汗だくのまま、白いヘルメットを深くかぶったまま立っているのかもしれない。
立ったまま、仕事もせず、ただ景色の一部として。
……もし、道端でそういう人間を見かけたら、近づかないほうがいい。
なぜなら、立っているその場所の上には、何かが落ちてくるかもしれないのだから。
[出典:http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1440010353]