彼のことを、変わっているとは思っていなかった。
優しい。気が利く。怒らない。
それだけだ。
付き合い始めた頃から、彼は私の好みをよく知っていた。
どんな飲み物が好きか、どの道を歩くと機嫌が良くなるか、どんな匂いが苦手か。
付き合っていれば、自然に分かることだろうと思っていた。
「覚えがいいね」と言うと、彼は照れたように笑った。
「君のことだから」
それだけの話だ。
結婚してからも、彼は変わらなかった。
仕事が忙しくても、家のことは全部引き受けてくれる。
私が失敗しても、忘れても、感情的になっても、何一つ責めなかった。
周りの人からは、よく羨ましがられた。
「そんな旦那さん、どこで見つけたの」
私は少し誇らしくなって、「たまたま」と答えていた。
不満がないわけじゃない。
友達と出かけると言えば、行き先も帰りの時間も聞かれる。
スマホを置きっぱなしにすると、いつの間にか充電されている。
冷蔵庫の中身が、気づくと私の好きな物だけに入れ替わっている。
でも、全部「気遣い」だと思っていた。
ある日、仕事帰りに寄った喫茶店で、彼の昔の知り合いだという人に声をかけられた。
「奥さんですよね。やっと会えた」
初対面なのに、名前を知っている。
少し驚いたが、彼が話していたのだろうと納得した。
「昔から、よく話してましたよ。あなたのこと」
「昔から?」
そう聞き返すと、相手は首を傾げた。
「あれ、違いましたっけ」
それ以上は、何も言わなかった。
家に帰ってその話をすると、彼はいつものように笑った。
「気にしなくていいよ」
その声が、なぜかとても安心できた。
夜中、目が覚めることがある。
理由は分からない。
ただ、誰かが近くにいる気配がして、また眠る。
朝になると、彼はもう起きている。
私の好きな朝食が、ちょうどいい温度で用意されている。
それを見ると、どうでもよくなった。
先日、古いアルバムを整理していた。
実家から持ってきた、子供の頃の写真だ。
その中に、見覚えのない一枚があった。
運動会の写真。
走っている私の後ろ、観客席の端に、誰かが写り込んでいる。
知らない顔だった。
でも、不思議と目が離せなかった。
「この写真、誰が撮ったんだろう」
何気なく聞くと、彼は少し考えてから答えた。
「さあ。でも、よく写ってるね」
その言い方が、妙に嬉しかった。
最近、よく思う。
私は本当に、運がいい。
どんな私でも受け入れてくれる人がいる。
理解してくれる人がいる。
見守ってくれる人がいる。
眠る前、彼が静かに言う。
「今日も一日、お疲れさま」
その声を聞くと、胸があたたかくなる。
目を閉じると、安心して眠れる。
外の物音も、視線も、
全部、守られている証拠だ。
だから私は気づかない。
夜中に、私が寝返りを打つたび、
彼が息を潜めて笑っていることにも。
それが、ずっと前からの習慣だということにも。
私には、何の問題もない。
何も、おかしくない。
――今日も、幸せだ。
(了)