山に入ったのは、ただの渓流釣りのつもりだった。
職場の同僚で、休日になると一人で山に分け入る男がいる。人付き合いが悪いわけではないが、釣りの話になると急に口数が増える。誰も知らない沢を見つけるのが楽しいのだと言っていた。車を停め、地図を片手に歩き、あえて人の踏み跡から外れる。釣果よりも、その過程が目的らしかった。
その年の秋、彼はいつも以上に奥へ入った。紅葉が異様なほど綺麗で、色の濃さに引き寄せられるように進んでしまったのだという。気づいたときには、地図と現在地が噛み合わなくなっていた。尾根の形も、沢の位置も、記憶と違う。
引き返そうとしたとき、水の音がした。
音があるなら沢がある。沢があるなら魚がいる。その判断だけで、迷っているという事実は頭から消えた。彼は音のする方へ降り、思った以上に水量のある渓流に出た。人の手が入った形跡はない。石も苔もそのままで、魚影も濃い。
ここなら釣れる。そう思った瞬間、なぜここに来たのかという違和感は完全に薄れた。
案の定、よく釣れた。竿を落とせば反応がある。小ぶりだが数が出る。気がつくと陽は傾き、谷に影が溜まり始めていた。帰り道を探すより、ここで一晩過ごした方が楽だと判断した。そういう判断をする自分を、彼はよく知っていた。
石を組み、金網を置き、火を熾した。串に刺した魚を並べ、脂が落ちる音を聞きながら、缶ビールを一本開けた。焚き火の前に座ると、不思議なほど安心感があった。山に入るといつもそうなるのだと言っていた。
気づいたとき、火はまだ生きていた。
パチパチという音で目が覚め、反射的に金網を見た。魚がない。一匹も残っていない。串だけが黒く焦げて並んでいた。
一瞬、理解が追いつかなかった。寝た覚えはある。だが、完全に眠った感覚ではない。うとうとした程度のはずだった。狸か狐だろうと思ったが、串ごと持っていかず、魚だけを綺麗に外すのは不自然だった。
もう一度焼くことにした。今度は気をつける。そう思っても、火を見ていると意識が沈んでいく。山ではよくあることだ。そう自分に言い聞かせた。
再び目を開けると、また魚はなかった。
腹は減っているのに、不思議と苛立ちはなかった。ただ、妙に静かだと感じた。夜の沢は本来、音で満ちているはずなのに、水音以外が遠い。
最後の数匹を網に並べる前、彼はポケットからメンタムを取り出した。昔からの癖だ。眠気対策で目の下に塗る。刺激で目が冴える。それを知っているから、今回は眠らないつもりだった。
火を見つめ、魚を見つめ、意識が落ちないように何度も姿勢を変えた。頭が前に落ちそうになるたび、無理やり瞬きをした。
そのとき、ガサガサという音がした。
すぐ目の前の茂みだ。距離は数歩もない。動物だと思った。だが、気配が低すぎる。足音でも体の擦れる音でもない。葉だけが揺れる。
見ていると、茂みの影から、何かが伸びてきた。
手だった。
指の形をしている。関節があり、爪がある。人の手だと、理解してしまった。理解した瞬間、体が動かなくなった。怖かったからではない。なぜか、それ以上見てはいけないと思った。
手は金網に触れなかった。魚にも触れなかった。ただ、そこに出ていた。
視界の端で火が揺れ、指の影が地面に落ちる。その影を見たとき、彼は目を閉じた。閉じたというより、閉じさせられた感覚だった。
次に目を開けたのは朝だった。
火は消え、金網は冷えていた。魚は一匹も残っていない。山はいつも通りで、昨夜の静けさが嘘のように鳥が鳴いていた。
彼は道を見つけ、何事もなかったように下山した。迷った感覚も、手を見た記憶も、現実感が薄かった。だから職場でその話をした。笑い話のように。
「結局さ、魚一匹も食えんかった」
そう言って笑う彼に、手のことを聞いたのは誰だったか覚えていない。
「人の手だったんだろ」
「うん」
それ以上、詳しく聞こうとすると、彼は一瞬だけ言葉に詰まった。
「まあ、人の手だと思ったってだけ」
それから彼は渓流釣りを続けている。ただ、一つだけ変わったことがある。焚き火の前に座ると、必ず眠くなるのだという。山でも、河原でも、自宅の庭でも。目を閉じる直前、必ず何かが動いた気配を感じるとも言っていた。
最近は、魚を焼かなくなった。
理由を聞いても、彼は答えない。ただ、火を見ると落ち着かないのだと、そう言うだけだ。
[出典:93 :元登山者:2009/05/02(土) 13:24:47 ID:+Fco6B460]