あの地震のあと、サイレンが町じゅうを貫いて鳴り響いたらしい。
俺は遠くの下宿で授業を受けていて、その音を直接は聞いていない。けれど、電話越しに母が慌ただしく叫んでいた声が、耳の奥にずっと焼き付いている。
「猫がいないんだよ」
それが最後の言葉になった。通信はぷつりと切れ、それから二度と繋がらなかった。
うちの猫は黒い毛並みで、目だけやけに金色をしていた。気まぐれで、人を噛むのが好きな凶暴なやつだ。それでも、俺は小さいころからその噛みつきや爪の鋭さを、愛情の延長みたいに感じていた。
母は、ぎりぎりまで家の中を探したらしい。押入れ、流し台の下、二階のベッドの下……でも、どこにもいない。たぶん、外に出てしまっていたのだろう。
あの日、津波はうちの二階の二段ベッドの上段まで届いたと聞く。外にいたなら、生き延びるのは絶望的だ。
しかも、その夜、プロパンガスが破裂して町じゅうで火が上がった。俺の実家も、津波のあとに焼け落ちた。残ったのは焦げた柱と、屋根の骨組みだけだった。
俺は被災地にいなかった。両親の安否すら、二日、三日とわからなかった。テレビは同じ映像ばかり流す。無線は壊れ、道路は寸断され、航空写真に映るのは、茶色く濁った海と、木片のように砕けた町だけ。
「もう駄目だ」
「このまま一人になるのか」
そんな言葉しか頭に浮かばなかった。胸の奥が冷たく沈み、涙が止まらない。夜、ベッドに潜っても眠れず、ただ暗闇の中で呼吸を数えるだけだった。
うとうとしたのは明け方近くだったと思う。眠りの境目で、意識は半分こちらに、半分はあちらに置き去りにされている。頭の中には実家の風景しかない。
食卓を囲む家族、コタツで丸くなる猫、階段を駆け上がる弟たちの足音、祖父母の小さな咳払い……それらがやけに鮮やかに浮かんだ。
でも、ふっと目が覚めると、その光景は全部砕け、津波の映像に置き換わる。「ああ、そうだった」と現実に引き戻されるたび、涙がにじんだ。
その朝も、同じように泣いていた。
授業も試験もどうでもよかった。帰省すればよかった。みんなと一緒にいればよかった。家族が死んでいたら、俺も死のう……そう思った瞬間だった。
右手に、ガリッと鋭い痛みが走った。反射的に見た手の甲に、赤い線が三本、皮膚を裂いて血がにじんでいた。まるで猫の爪で引っかかれたような傷だった。
うちの猫は、しょっちゅう俺の手を引っかいた。噛みつくこともあった。でも、血が出るほどの引っかきは滅多になかった。昔、一度だけ尻尾を引っ張って怒らせたとき、似たような傷を負ったことがある。
その感触を、鮮明に覚えている。
だから、そのときは不思議と他の可能性を考えなかった。
「怒ってるんだな」
死ぬなんて考えたから、あいつが怒って引っかいたんだろう。そんな気がした。
「てめえ、何ひとりで不幸ぶってんだ」
「死ぬ価値すらねえよ」
どこからか、そんな声が聞こえた気がした。
その夜は、久しぶりにぐっすり眠れた。夢も見なかった。
けれど、覚えていることがひとつある。
胸の上に、温かい重みを感じたのだ。丸くて、ゆっくり呼吸しているような、柔らかい重み。
目は開けていない。けれど、あの猫がそこに乗っていたとしか思えない。
やがて重みはすっと消え、俺はそのまま眠り続けた。
翌朝、目を覚ましたときには、もう何かが吹っ切れていた。
免許を持っている友人に土下座して頼み、ガソリンスタンドをはしごして燃料を確保し、スーパーで物資を買い込み、被災地に向かった。
道路は寸断され、橋は流され、瓦礫の山を迂回するたびに遠回りになった。それでも、諦める気はなかった。
友人たちは文句も言わず手を貸してくれた。俺は、その厚意に甘えながらも、胸の奥でただひとつの願いだけを繰り返していた。
「生きていてくれ」
避難所で、家族と再会できた。両親も弟たちも、祖父母も、生きていた。
だが、猫の姿はなかった。
焼け跡や瓦礫を、友人と探し回った。柱の下、崩れた壁の隙間、泥に埋もれた家具の間……何も見つからない。
人間すらまだ埋もれている場所だ。猫の骨を探すことが、どれほど難しいかはわかっていた。
それでも、せめて形だけでも見つけてやりたかった。
結局、何も見つからなかった。
夜、避難所の片隅で毛布にくるまり、携帯に残っている猫の写真を見た。
金色の目が、じっとこちらを見つめている。
その視線は、生きているときと何も変わらない。
そして、俺はふと気づいた。
――あのときの引っかき傷も、胸の重みも、きっと「生きろ」という意味だったのだ。
今でも右手には、あの日の薄い傷跡が残っている。
そこを指でなぞるたびに、温かい重みが胸の上によみがえる。
あいつは、もういないのかもしれない。それでも、俺のそばにいる気がしてならない。
[出典:859 : 本当にあった怖い名無し : 2011/03/31(木) 12:45:12.65 ID:uvFavIGCO]