自分は、霊感なんてかけらもない。
今まで一度も“見た”こともなければ、“感じた”こともない。
そういうものは別世界の話。そう思ってるくせに、気づくと、こうして怪談系のサイトを徘徊してるんだよな……怖いくせに、好奇心はやめられない。
あれは、何年か前の夏――いや、もう初夏だったか。
湿気がまとわりついて、シャツの背中にじっとり汗が滲んでくる、そんな日だった。
親友の正典から、妙な頼みごとをされた。
「俺の母方の実家に、一緒に来てくれ」
最初は冗談かと思った。
聞けば、去年も一度、母親に連れられて行ったそうで、「今年もどうしても行きたい」と。
ただ、母親は今年は都合がつかず、かといって一人では絶対に行きたくない、と言う。
「変わってるな……母方の実家なんて、ひとりで帰るもんじゃないか?」
「他に頼むヤツいなくてさ。全員断られた」
そりゃそうだ。
正典の“母方の実家”ってのは、ドがつく田舎のさらに奥。
山間にある、地図に載ってるのが不思議なくらいの集落だった。
電気も水道もネットもあるが、列車の乗り継ぎで片道十時間。コンビニまで山二つ超えるという笑えない話も、本当だった。
移動中の電車の中で、正典がぽつぽつと話してくれた。
去年、二十歳の誕生日に、母親に連れられて訪れたときのことを。
「母さんに、どうしても来いって言われてさ。なんか、成人したら村に顔見せる決まりみたいなノリでさ」
だが、着いてもやることなんてない。娯楽ゼロ。
祖父母に挨拶した以外、特に呼ばれる先もなく、正典は時間つぶしに、近くの店が並ぶ道まで散歩したそうだ。
そこで事件は起きた。
駄菓子屋みたいな古びた店に入って、軽く挨拶しただけなのに――
「もうウチは閉めるよ!帰って!」と怒鳴られて追い出されたらしい。
「ジュース一本くれりゃいいのにさ」
怒鳴り返すと、店先のおばちゃんは顔すら向けず、震え出したそうだ。
「ぎゃあああ!助けて~~~ッ!『オトロ』やぁあああ!!おとうさあああん!!」
突如として悲鳴。
店の奥から、棍棒を持った白髪の男が飛び出してきて、「オトロ!いねや!」と叫びながら正典に殴りかかってきたという。
まるで化け物を見るかのように。
周囲の住人も、遠巻きに正典を囲みはじめた。
正典は必死で逃げ、汗と泥にまみれて実家にたどり着いた。
「母さん!マジでやばいって!なんなのあれ!?」
詰め寄っても、母親は黙って下を向いたままだった。
そこへ声をかけてきたのが、一緒に座っていた老僧――村の住職だった。
「大きなったなあ。お寺さん、覚えとるか?」
わけもわからぬまま、正典が今起きたことを話すと、住職が呟いた。
「覚えとらんか……覚えとらんのか……そうか……」
やがて住職が重く口を開いた。
――正典が赤ん坊だった頃。
産後の静養のため、母親と一緒にこの村にしばらく戻っていた。
正典は美しい赤子だったそうで、祖父母も嬉しげに周囲に見せて回った。
ある日、祖父母の知人だった高名な僧侶が、赤子の顔を拝みに来た。
そのときだった。
母親が正典を抱いて僧侶の前に出た瞬間、赤子の口から、おぞましい罵声が飛び出したという。
誰もが耳を疑った。
だが、確かに罵ったのは、赤ん坊の正典だった。
「オトロや!」
誰かが叫んだ。
その瞬間、家は修羅場と化し、客人たちは逃げ出し、祖父母たちは青ざめた顔で話し合いを始めた。
「どうやって“アレ”を処分するか」――そう話していたと、住職は語った。
正典を、殺そうとさえしていたらしい。
だが、そのときのお師匠さんが「絶対にさせん!」と強く反対し、自らが引き取って寺で育て始めたのだという。
正典は三つ寺をたらい回しにされ、それでも何事もなく育っていった。
だが、お師匠さんが亡くなると、後ろ盾がなくなった正典は親元に戻されてしまった。
『オトロ』。
それはこの地方で忌まれる存在――人を不幸に巻き込む“よくないもの”。
憑かれた者は、周囲を破滅させる。
作物が枯れ、家が焼け、命が絶える。
だから、この村では昔から“石で頭を割る”ことで絶ってきた。
お師匠さんの遺言に、こうあったそうだ。
「二十歳になるまで何もなければ、もう大丈夫。
もし“オトロ”だったら、石で頭を割れ」
ぞっとした。
正典は冗談のように笑っていたが、その笑みの奥に、長年の重さが滲んでいた。
村に着いてすぐ、正典は実家でなく寺へと向かった。
迎えてくれた住職は、穏やかに笑っていた。
その境内には、砕けた石の玉が、数十個も転がっていた。
「あれ……何なんですか?」
「お代わりや。『オトロ』が正典を殺そうとした時の、身代わりやな。
お師匠さんはな、何から何まで“お代わり”にしたんや。
わしのカブ(愛車)まで持ってかれそうになったで」
そう言って、住職は笑いながら奥から包みを持ってきた。
中には、真っ二つに割れた、漆黒の位牌があった。
「お師匠さんや」
正典はそれをじっと見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……なんで俺なんかに、そこまで……?」
しばしの沈黙のあと、自分たちは寺を後にした。
正典の顔が、少しだけ穏やかになっていたように見えた。
帰り道、自分は正典に尋ねた。
「なあ、『オトロ』って、結局なんなんだよ?」
正典は少しだけ考えてから、言った。
「……なんなのか、俺にもよくわかんねぇけどさ。
とにかく“いるだけで”周りを不幸にする存在なんだ。
誰かを不幸にするとかじゃない。“存在”が災いなんだって。
だから、殺されるしかなかったらしい。
昔はよくあったってさ」
「この時代にそんな……」
と苦笑いしかけたが、気づけばもう、自分は笑えなかった。
――あの、砕けた石の玉。
本当に“身代わり”だったのだろうか。
あれが全部壊れなくなったとき、誰が壊れるのか。
そのことを、正典は語らなかった。
(了)