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あとふたり rw+6,664-0611

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三十年近くたっても、潮の匂いを嗅ぐと、肺の奥が冷える。

わたしが二十歳を少し過ぎた頃、夏のあいだだけ海女の仕事をしていた。代々続く家の者でもなければ、海に特別な敬意があったわけでもない。泳ぎには自信があったし、体力もあった。なにより、その頃のわたしは、少し危ない場所ほどよく採れると思っていた。若さというより、ただの浅ましさだったと思う。

漁場の沖に、小さな島があった。

島といっても、木が茂っているわけではない。黒い岩が海から突き出しているだけの、遠目には獣の背中のような場所だった。岸から三百メートルほどしか離れていない。波のない日は、泳ぎに慣れた者なら行けそうに見える。

けれど、年配の海女たちは誰もそこへ近づかなかった。

「あそこだけはやめときな」

理由を聞いても、返ってくる答えはいつも同じだった。

「潮が悪い」

ただそれだけだった。

わたしは、それを潮の流れの話だと思っていた。年寄りにはきつい流れでも、自分なら行ける。そう思っていた。実際、何度も沖から島を見て、距離を測るようなことをしていた。誰も入らない場所なら、貝も残っている。そんなことばかり考えていた。

その日は、午後になっても海が静かだった。空は白く照っていて、波も低い。いつもの場所でいくらか採ったあと、わたしは周りに誰もいないのを確かめてから、島のほうへ泳ぎ出した。

思ったより簡単だった。

潮に持っていかれる感じもない。むしろ、島のほうから引かれているようで、途中からほとんど力を入れなくても進んだ。岩場に手をかけて身体を上げたとき、わたしは息を切らしながら笑った。

なんだ、こんなものか。

そう思った。

岩のまわりに潜ると、すぐに理由がわかった。人が入っていない海だった。大きなアワビが、まるで置かれたように岩肌についていた。サザエも、見たことのない大きさのものがいくつも転がっていた。わたしは夢中で剥がし、網に入れた。いつもの倍どころではない。これだけで、今日一日の稼ぎは十分すぎるほどになる。

その途中で、海底に太い綱が見えた。

岩から岩へ、何重にも巻かれている。漁具ではない。古びて、ところどころ海藻に覆われているのに、綱だけはまだ沈みきらず、そこに残る意思のようなものを持っていた。

触らないほうがいい。

そう思ったのに、わたしの手はもう近づいていた。

指先が綱に触れた瞬間、耳の奥で子どもの笑い声がした。水の中なのに、はっきり聞こえた。驚いて顔を上げると、息が少し漏れた。泡が目の前を上がっていく。その泡の向こうに、小さな足が見えた。

島の上へ逃げるように上がった。

岩肌は熱く、手のひらが痛かった。網を引きずり上げ、荒い息をついていると、島の側面に何かが並んでいるのに気づいた。小さな地蔵だった。彫られているというより、岩を少しずつ削って、顔らしきものを残しただけのように見えた。数はすぐにはわからなかった。波をかぶって丸くなり、苔がつき、どれが顔でどれが傷なのかも判然としない。

その中のひとつだけ、口が開いていた。

「……ねえ」

背中から声がした。

振り返ると、男の子が立っていた。

十歳くらいだったと思う。白いシャツに、紺色の半ズボン。昔の子どものようでもあり、ついさっきまでそこらの浜で遊んでいた子のようでもあった。髪も服も濡れていない。裸足なのに、足の裏にも砂ひとつついていなかった。

「おねえちゃん、どこから来たの」

わたしは答えられなかった。喉が閉じたようになっていた。

男の子は、わたしの網を見た。

「いっぱい採れたね」

その言い方が、妙にうれしそうだった。

「それ、持って帰るの」

わたしは頷いたつもりだったが、身体は動いていなかったと思う。

男の子は少し首を傾げた。

「じゃあ、ぼくも帰れる?」

その声を聞いた瞬間、島の熱が消えた。さっきまで焼けるようだった岩が、濡れた石のように冷たくなった。

「ぼく、足が痛いんだ」

男の子がそう言うと、足首のあたりが黒くなった。血ではなかった。濡れた縄の跡のようなものが、皮膚の下から浮き上がってきた。

「頭も痛い」

額の真ん中がへこみ、そこから砂がこぼれた。

「喉がかわいた」

口が少しずつ広がった。開いているのに、声は変わらなかった。口の中は暗く、その奥で波が鳴っていた。

「お腹もすいた」

シャツの胸元がへこみ、肋骨のようなものが布越しに浮いた。けれど、顔だけは最初のままだった。子どもらしい、困ったような顔のまま、わたしを見ていた。

「ねえ、おねえちゃん。帰り方、知ってる?」

わたしはそのとき、ようやく声を出した。

「知らない」

それだけ言うと、男の子は少し悲しそうにした。

「でも来たでしょ」

わたしは網を捨て、海へ飛び込んだ。

すぐに浮くはずだった。けれど、身体は沈んだ。腕をかいても、足を蹴っても、海面は遠ざかっていく。誰かに足を掴まれている感覚はなかった。ただ、海の底のほうが自分の居場所だと、身体の重さだけで決められていくようだった。

光が薄くなり、岩の影が広がった。さっきの綱が見えた。綱の向こうに、低い穴があった。人ひとりがやっと入れるくらいの、小さな洞穴だった。

その中に、骨があった。

子どもの骨だと思った。けれど、小さい骨の横に、もうひとつ、もっと大きな骨が見えた。さらに奥にも何か白いものが沈んでいた。水中眼鏡の輪だけが、目のようにこちらを向いていた。

そのとき、わたしの捨てたはずの網が、洞穴の前にふわりと降りてきた。

中の貝がこぼれた。

アワビだと思っていたものは、岩に貼りついた古い皿のように見えた。サザエだと思っていたものは、欠けた小さな頭蓋のようにも見えた。水の揺れのせいだ。そう思おうとしたが、ひとつだけ、はっきりと目が合った。

男の子の声がした。

「おねえちゃん、ひとり見つけた」

その瞬間、身体が軽くなった。

わたしは水面へ押し返されるように浮かび上がった。どうやって岸まで戻ったのか、よく覚えていない。気づいたときには砂浜に倒れていて、口から海水を吐いていた。網は、手首に絡まっていた。

中身は大漁だった。

漁協へ持っていくと、買取の人が目を丸くした。こんな大きいものは久しぶりだと言った。周りの人も集まってきた。どこで採ったのかと何度も聞かれたが、わたしは答えなかった。答えられなかったのではない。口にしようとすると、舌の裏に砂が詰まるような感じがしたのだ。

その夜、年配の海女が家に来た。

いつも「あそこだけはやめときな」と言っていた人だった。わたしの顔を見るなり、ああ、という顔をした。

「行ったんだね」

わたしは黙って頷いた。

「何人いた」

その聞き方が変だった。何を見たかではなく、何人いたか、と聞いた。

「男の子が、ひとり」

そう言うと、彼女は長いあいだ黙った。

「ひとりだけかい」

その声があまりに低かったので、わたしは聞き返せなかった。

彼女はそれ以上、詳しいことを話さなかった。ただ、昔あそこで子どもが流されたことがある、とだけ言った。助けに行った大人も戻らなかった、とも言った。何人だったのかと聞くと、彼女は火の消えた仏壇のほうを見た。

「数えないほうがいい」

翌日、警察が捜した。わたしが見た洞穴も、綱のあたりも、潜れる者が何人も潜った。しかし、骨は見つからなかった。網を捨てた場所も見つからなかった。島の側面にある地蔵は確かにあったが、前の日に見たほどの数はなかった。

口を開けた地蔵もなかった。

ただ、海底の綱だけはあったという。古いものなのに、切ろうとしても切れなかったらしい。後日、別の漁師が船で近づいたが、エンジンが止まった。それからは、誰もその話をしなくなった。

わたしは海女をやめた。

採った貝の代金は、封筒に入れたまま長いこと持っていた。使う気になれなかった。だが、いつのまにか封筒は空になっていた。盗まれたわけではない。中には、濡れた砂が少しだけ残っていた。砂の中に、小さな白い欠片が混じっていた。

それが貝殻なのか、骨なのか、いまでも確かめていない。

三十年たって、わたしはまたこの海の近くに住むようになった。理由は自分でもよくわからない。戻りたいと思ったことは一度もないのに、家を探しているうちに、いつのまにかここへ来ていた。

朝になると、沖の島が見える。

昔より小さくなったように見える日もあれば、近づいているように見える日もある。潮が引いた日には、岩肌に並んだ地蔵のようなものが、双眼鏡を使わなくても見えることがある。数は日によって違う。

去年の夏、近所の子どもが浜で遊んでいて、母親にこう言ったそうだ。

「あの島に、おばさんがいる」

その話を聞いたとき、わたしは笑えなかった。

その子は続けて、こう言ったらしい。

「いっぱい採れたねって言ってる」

それから、潮の匂いが強い夜には、窓の外で小さな声がする。

「おねえちゃん」

最初は、昔と同じ声だった。十歳くらいの男の子の声。けれど最近は、その声に混じって、別の声が聞こえる。低い男の声。泣きそうな子どもの声。息だけで呼ぶような声。

そして昨日、初めてはっきり聞こえた。

「あとふたり」

わたしはもう、あの島へは行かない。

けれど、海の近くに来た人が、たまに妙なことを言う。歩いているだけなのに、急に潮の匂いが強くなったとか、耳の奥で水の音がしたとか、子どもに「どこから来たの」と聞かれた気がしたとか。

そういう話を聞くたびに、わたしは相手の顔を見る。

その人が、まだこちら側にいる顔をしているかどうかを、確かめるために。

(了)

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