⇒関連話:二人分の影
二十歳の夏、八つ坂トンネルで「見える人」と名乗る女性に出会った。
それから数週間後、あの出来事とは直接関係ないはずの飲み会が、なぜか自分の部屋で開かれることになった。
大学近くの古いアパートの一室。
家具らしい家具はなく、テーブルとテレビと、後輩が持ち込んだ冷風機があるだけの居間。生活感は押し入れに押し込めてある。人を呼ぶ部屋ではないが、銀橋が勝手に話を進めた。
集まったのは六人。
自分と銀橋、隣室のヨシ、八つ坂トンネルで倒れていた八坂真理とその友人の飯野由美、そして銀橋の彼女である神崎羽花。
料理を並べ、乾杯して、場は穏やかに始まった。
会話は大学の愚痴や映画の話、どうでもいい雑談。八坂はあまり喋らず、部屋の隅を何度か見ていたが、誰も気に留めなかった。
話題が自然と、八つ坂トンネルの件に戻ったのは酒が回ってからだ。
八坂は、自分が「見える人」だと説明し、あの夜に倒れた理由を語った。飯野は横から、彼女の話を冷静に否定した。思い込みだ、噂を聞くと見えると言い出す、知らなければ何も起きない、と。
神崎は興味なさそうに言った。
幽霊という個体はいないが、そう感じる現象はある。見る人にとっては本物だが、自分の世界には存在しない、と。
ヨシだけが、笑いながら肯定派を名乗った。
「この部屋、今日は特に多いな」と天井の隅を指差し、「人が多いから遠慮してる」と言った。
場が一瞬、静まった。
誰も笑わなかった。
八坂に視線が集まる。
彼女は首を振り、「何も見えません」と答えた。ヨシは大笑いして、全部嘘だと明かした。場は解けたが、完全には戻らなかった。
多数決が始まり、幽霊がいるかいないか、という無意味な問いに行き着いた。
自分は「分からない」と答えた。見たことがない。だが、いないとも言えない。確かめに行くという行為そのものが、存在を前提にしているからだ。
その答えに、誰も異を唱えなかった。
夜も更け、解散となった。
神崎は銀橋に連れられて帰り、ヨシは居間で転がったまま寝ている。玄関で八坂と飯野を見送る。
飯野は自販機へ向かる前に、振り返って言った。
「ドア、閉めたほうがいいですよ」
何気ない忠告だった。
言われた通りドアを閉めたとき、居間の奥で何かが擦れる音がした気がした。だが、振り返らなかった。
八坂と二人きりになり、少し話した。
今度、二人で出かけようと誘うと、彼女は一瞬怯えた顔をしてから、「幽霊が出る場所ですか」と聞いた。違うと答えると、安堵したように笑った。
別れ際、彼女は小さく言った。
「……さっき、見えなかったの、嘘じゃないです。でも」
続きは言わなかった。
代わりに、部屋のドアをちらりと見た。
八坂が去ったあと、居間に戻る。
ヨシが起き上がり、缶ビールを差し出してきた。
「やったな」と言う。
何がだと聞くと、「今日は連れて帰ってないと思ってただろ」と笑った。
「さっきの話、嘘じゃなかったのか」と聞くと、
「ウソだよ」と言ってから、「でもな」と続けた。
「いないって言い切れるほど、この部屋、静かじゃねえだろ」
その瞬間、冷風機が止まった。
誰も触っていない。コンセントは抜けていない。
ヨシは何も言わず、ビールを開けた。
自分も同じように開け、ぬるい泡を飲み下す。
天井の隅に視線を向けたが、そこには何もない。
ただ、何もないはずの場所に、空間の歪みのような、視線の逃げ場のなさだけが残っていた。
その夜、電気を消してから、押し入れの中で何かが動く音が、朝まで止まらなかった。
中身を確認する気には、最後までならなかった。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「かれき ◆UtLfeSKo」 2018/08/06]